第九話 夢喰い

「楊師の様子はいかがかな?」


 拝礼をしたしょう理薫りくんが、静かに寝所に入ってきた。


 楊周は、寝息を立てて眠っている。寝台の横で萎れている小虎子が、涙目で首を横に振った。


「目覚めません」

「ふうむ……」


 承公が首を傾げた。


 楊周と小虎子は、古都の王慶おうけいを訪れていた。王慶には楊周の知り合いが多く在し、あちこちから招かれる楊周に付いて、小虎子も馳走三昧の日々を謳歌していた。

 ところが。承公の館に招かれたその晩から、楊周が眠ったままになってしまったのである。熱があるとか、うなされるとか、そのような体調の異変を窺わせる兆候は見られず、ただひたすらこんこんと眠り続けていたのだ。


 すでに三日目。穏やかに眠っていると言っても、その間は飲まず食わずだ。主人を案ずる小虎子の心労も極限に来ていた。


 承公が小虎子に確かめる。


「なにか、こうなる兆しのようなものはなかったかの?」


 憔悴した小虎子が押し黙る。


「いいえ……思いつかないです」


 従者として付き添っていながら、ご主人さまの異変に気付かないなんて。小虎子が己を責めた。涙が溢れる。


「そちも、少し休んだ方がよいぞ」

「ですが……」

「楊師が目覚められた時にそちがやつれた顔を見せれば、余計心配するであろう?」

「はい……」


 承公の呼んだ侍女が、小虎子に厚織りの綿布を羽織らせた。承公の配慮に少し心が緩んだのか、小虎子はすぐに眠りに落ちていった。


◇ ◇ ◇


「これ!」


 ん?


「これ! 小虎子! いつまで寝腐っておる!」


 小虎子は、楊周の叱り声にはっと首を上げた。だが、見回してもそこには何もない。誰もいない。ここは?


「おぬしの夢の中じゃ。案ずるな」


 へ? ゆ、ゆめぇ?


「良く聞け、小虎子。わしは今、夢喰いの足を捕まえておる。こやつ、なりは小さいが厄介での。眠っている間に入り込まれて夢を喰われると、そやつはもう眠りから覚めずにやがて往んでしまう」


 げ……。


「王慶では、民が相当こやつにやられているようでの。奇病じゃと怖れられておる。大守の李丘りきゅうどのに退治を頼まれて、罠をかけた。きゃつは移動の時には鼠の形を取る。そいつを、好物のでここにおびき寄せた」


 さすがご主人さま。そんなことまで出来るのか。


「きゃつはわしの夢を喰おうと、わしの眠りの中に入り込んだ。じゃが、わしは夢は見ぬ。慌てて逃げようとするところを首尾よく捕らえた。が、わしはこやつを始末できぬ。おぬしが仕留めよ」


 ええーっ!? わたしがあ!?


「よいか、よく聞け。おぬしの懐に赤い符の付いた短刀が一本入っておる。そいつを持って戸口を固めよ。すでに、三方と上下は呪符で封じてある。これで、きゃつは逃げられぬ。後はおぬしに任せる。わしはこやつを抑え込むのに力を使うておるので加勢できぬ。必ずおぬしの力で仕留めよ。よいな!」


 夢の中では問答はできない。小虎子はただ頷くしかなかった。直後、目が覚めて跳ね起きた小虎子は、懐の短刀を持って戸口へ飛び退った。


 ちちっ!


 鋭い鳴き声がして鼠が壁を伝って走った。小虎子が短刀を構えるが、すばしこくて狙いが定まらない。短刀が的を外してしまえば、自分のところが抜け道になってしまう。二の矢は継げないのだ。


 小虎子は左手を懐に突っ込んで、穴の開いたつるばみを取り出した。昼間、承公の子と遊ぶのに鳴り独楽を作ったのを思い出したのだ。それを鼠を囲むように一斉に投げつけた。


 ひゅううううううううぅぅぅ!


 四方で鳴る音に怯えて、鼠の足が止まった。小虎子は、その一瞬を逃さなかった。

 しゅっ! 狙い済まして放たれた短刀が、見事に鼠の体を穿った。


 ちいーーっ!!

 小さな鳴き声を残し。短刀に突き抜かれた鼠は、腐った紙束のようにがさりと崩れて落ちた。


 ふう……。


「ふあああう。よう寝たわ」


 楊周がむくりと起き上がって、何事もなかったかのように大きな欠伸を繰り返した。


「ご主人さまあっ!」


 泣きながら飛びつこうとする小虎子を、楊周が手で制した。


「相変わらずやかましいやつよのう。まあ、おぬしにしては上出来じゃ。よく龍笛りゅうてきを思いついたの」

「えへへ」


 目を擦った小虎子が、楊周に尋ねた。


「ご主人さまは、夢を見ないんですか?」


 楊周が飄々と答える。


「見ぬ」

「へえー……」


 そんなことが出来るのかという風情で、小虎子が楊周の顔をしげしげと見つめた。大きな欠伸を噛み潰した楊周が、そっぽを向いて答えた。


「夢を見るのは幸せな者だけじゃ。だからこそ。それを喰われれば往ぬるのよ」


 小虎子の懐の橡が、きしりと鳴った。



【第九話 夢喰い 了】

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