第二十話 待ち人

 夕闇迫る山道を、若い夫婦が振り返りながら降りていく。


「さあ、わしらもはよう里まで降りてしまおう」

「そうですね、ご主人さま」


 小虎子が、木に繋いであった驢馬の手綱を解いた。楊周がゆっくりと山並みを見回す。里へはもうすぐ。まだほんのり明るさが残るうちに着けそうである。


 今日は、小虎子が珍しく髪を下ろしている。先ほど野犬に取り囲まれていた若夫婦を助けた際に、冠が木に引っかかって裂けてしまったのだ。それをそのまま被るのはみっともない。


「宿で直せばよかろう?」


 困り顔の小虎子に、楊周は事も無げに言った。


「ご主人さまは、わたしが女のなりでもいいんですか?」

「大丈夫じゃ。どうせ、そう見る者はなかろうて」


 楊周が憎まれ口を叩く。小虎子は膨れたが、髪を後ろで束ねた。さらり。長い黒髪が肩を流れた。


◇ ◇ ◇


「えっぷ」

「まるで赤子が入っているかのような腹じゃの」


 楊周が呆れて、宿の床に大の字になっている小虎子を見やっている。


「そういえば、さっきのご夫婦。奥方のお腹が大きかったですね」

「そうだな。夫君も、やや子が生まれるのを楽しみにしていることじゃろう」

「ご主人さまには、奥様やお子様、お孫さんはいないんですか?」


 ごく自然な流れで。小虎子は聞いた。今までずっと気になっていたけれど、聞く機会がなかったのだ。従者として、ご主人さまの個人的なことをあれこれ詮索したくなかったということもある。


「おらぬ。わしはずっと独り身だ」

「へえー……」


 小虎子は意外だった。


 今は老人だが、楊周が若い頃の姿は容易に想像できた。身のこなしが軽く、頭の回転が早く、洒脱でほがらかで、常に余裕を感じさせる。小柄だとはいえ、彫りの深い顔と引き締まった体躯は、女性を惹き付けて余りある。何不自由なく旅を続けているということは、金銭的にも恵まれているのだろう。女性にもてる要素は全て揃っている。


 ただ……。ご主人さまからは、欲というものが一切見えてこない。食欲、金銭欲、名誉欲。……そして性欲。


 わたしはご主人さまの警護の従者だ。野宿では隣に寝るし、宿でも同じ部屋で休む。従者としてお伴すると決めた時に、わたしは覚悟した。ご主人さまの求めがあれば、仕方あるまいと。わたしは……従者なのだから。でもご主人さまは、今まで一度もそういう目でわたしを見たことはない。いかな夜、いかな状況であっても。


 川で身を清める時も。ご主人さまはわたしの裸体をじろじろ見るでも、目を逸らす

でもない。わたしは景色の中の一部として、収まってしまっている。


「ご主人さま」

「ん?」

「その……女を抱いたことが……ありますか?」


 何を聞くのだという風に、楊周が呆れる。


「おぬし、抱いて欲しいのか?」

「めめめめめ、滅相もありませんっ!」

「まったく!」


 ふうと一つ息を吐いて。楊周が答えた。


「若い頃はな。ただ、旅を始めてからは一度もない」


 えっ!?


「身を契れば、お互いに相待つことになる。心が通えば通うほどな。じゃが、わしはそこへは帰れぬ。それが旅だ。再会の約束は出来ぬ」


 小虎子は、ばかな質問をした自分を責めた。ご主人さまは、恐いくらいに真剣なのだ。旅をすることに。それを続けることに。そこに己の欲を全て注ぎ込み、後には何も残らないほどに。


◇ ◇ ◇


 翌日。二人と一頭は、南応なんおうに向かう途中、小さな峠を越えた。峠の手前に大木があって、その枝が傘のように道を覆っている。楊周は、ふとそこで立ち止まった。


「ご主人さまあ、どうしたんですかあ?」


 楊周は、しばらくその木の根元を見つめて。ぽつりと言った。


「おぬしは、いつから待っておる? わしは、約束は出来ぬ。じゃが、ここを通る時には必ず遊んでやろう」


 そうして。柔らかく笑った。



【第二十話 待ち人 了】


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