第十九話 柿

 ぴしゃっ!

 情けない音を立てて、小虎子の頭の上で何かが潰れた。


「ふぎゃっ! な、なにこれえっ!」


 慌てる小虎子。楊周が、やれやれといった風情で首を振った。


「相変わらず、隙だらけじゃのう。落ちて来たのが柿じゃのおて剣だったら、おぬしは今頃まっ二つじゃ」

「そ、そんなこと言わないでくださいよう。ご主人さまあ」


 たわわに実を着けた柿の大木の下。小虎子の頭の上で潰れた熟柿が、べたべたの汁を顔中に垂れ流す。


「うえええっ。気持ち悪いよう」


 吹き出しそうになるのを堪えながら、楊周が小虎子を追い払った。


「ほれっ! そこに農家がある。井戸を借りて頭を洗ってこい」


◇ ◇ ◇


「すいませーん」


 赤子を背負った女が、顔を上げて小虎子を見た。途端に吹き出す。


「ほっほっほっほっほ!」

「笑わないでくださいよう」

「だ、だってえ」


 ひとしきり笑った女は、髪を洗いたいという小虎子を家の裏手に案内した。そこにはいくつもの大きな瓶に、水が汲み置かれていた。


 おやあ? 小虎子がいぶかる。


「あのお……」

「なんでしょう?」

「表に井戸がありましたよね。もう水が出ないんですか?」


 ぐずりだした背中の子をあやしながら、女が答えた。


「水に毒が入ってしまったんですよ。この辺りの井戸には全部」

「毒……ですか?」

「ええ。飲めばお腹を壊す。畑に撒けば苗が枯れる。洗濯に使えば布が破れる。どうにもなりません」


 女は溜息をつきながら瓶を指差した。


「だから、川水を汲んで使っているんです」


 貴重な水だ。熟柿を洗い落とすのに使うのは気が引ける。でも、このべたべたは我慢出来ない。小虎子は女に礼を言って、桶で数杯の水をもらって髪を洗った。


「ふう。やれやれ……」

「あら……」


 女が驚く。


「女の方だったんですね」


 しまった。まあ、今更隠しても間に合わない。小虎子は開き直った。


「ええ。女の格好では、旅をするのに物騒なので」

「旅をなさっているんですか」


 女は、小虎子に旅の話をせがんだ。世話になったこともあって、小虎子はそれを拒みきれなかった。


◇ ◇ ◇


 楊周は、いつまでたっても戻って来ない小虎子にしびれを切らして、農家に向かった。


「まったく、あやつは何をしておるのじゃ」


 そして、井戸の側を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。


「む……」


 じっと井戸を見つめる。


「そうか」


 楊周は足早に裏手に回ると、小虎子をどやしつけた。


「これ! いつまで一人でしゃべっておる!」


 小虎子は呆気にとられた。


「ご主人さま、お待たせしてすみません。ですが、この奥さんに話をせがまれて……」

「どこに奥方がおる!」

「え!?」


 振り返った小虎子の前から、あの赤子を背負った女は消えていた。


「ひ……」


 楊周がふっと息を吐いた。


「あの大きな柿の木は男じゃ。道を挟んで真向かいに女の柿の木があってな」

「へ?」

「二年前に村人が、老いて実を着けなくなった女の柿の木を伐った。男の柿は怒り狂い、己の根を通して、水脈に毒を放った」

「うわ。すごく奥さん思いの木ですねえ」

「単に嫉妬深いだけじゃ」

「は?」

「木が老いたのも、男の束縛がひどかったからじゃ。女は、伐られてやっと自由になれると思うたのに、その後も家に封じ込められての」


 楊周が家に目をやる。小虎子はこの時初めて、家に生活感がないことに気付いた。


「男は縛り、女は自由を求めた」

「普通は逆ですよねえ」

「そうよのう」


 小虎子は、女が旅の話を聞きたがったことを哀れに思った。それは己が求めてやまない、自由の象徴だったのだろう。


 楊周は、きびすを返して柿の木のところに戻り、たわわに実った柿を見上げた。そして懐から呪符を出すと、それを柿の木に思い切り叩き付けた。


「大概にせぬかっ!」


 めりめりめりめりめりっ! 大きな音を立てて、柿の木が根元から折れて倒れた。


◇ ◇ ◇


「ご主人さま。奥さんは自由になれたんですかねえ」

「さあ、それは分からぬ」

「ひどい男に引っかかったということですか?」

「まあな。じゃがの……」


 楊周は、山のような柿を抱えてむしゃむしゃ食べている幸せそうな小虎子に言った。


「柿は食うてみなければ、甘いか渋いか分からぬ。そんなものよ」



【第十九話 柿 了】

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