第十八話 岩

 ぶるぶるぶるっ! 小虎子は、寒さに震え上がった。ここしばらく旅籠はたごに泊まることが多くて、野宿がなかったからなあ……。


 露をしのぐのに幕を張って、その下で綿布をまとって横になっただけだと、下からしんしんと冷えてくるのが辛い。ご主人さまは岩の上にそのままごろりと横たわって、何するものぞという感じで、寝入っている。鍛え方が違うなあ。


「えくしっ!」


◇ ◇ ◇


 紫水渓しすいけいは景勝地で知られていた。広い川に張り出すように奇岩が立ち並び、それが川面に映って独特の景観を醸す。


 もちろん、楊周はそれを目当てに来たわけではない。奏苑そうえんから翼州よくしゅう犀玄さいげんに出るには、川を下らないとならないから。それだけの理由であった。


 先ほどの小虎子のくしゃみで目覚めた楊周は、幕を出て伸びをしながら周囲を見渡した。まだいくらか朝もやが残っているが、穏やかな日差しが辺りを暖め始めた。川向かいには、人形ひとがたをした奇岩がそびえ立つ。


 鼻をすすりながら出て来た小虎子が、同じように川向いを見て叫んだ。


「ああーっ! すっごーいっ! 人みたいだっ!」

「朝っぱらからやかましいのお。あれは会談岩じゃ。川下りのお目当てじゃの。昼になるとこの辺りは舟だらけになるぞ」


 楊周は岩の上にあぐらをかくと、小虎子に故事を一つ語って聞かせた。


◇ ◇ ◇


「遥か昔にな。奏苑の領主と犀玄の領主との間にいさかいが起きて、ここが戦場いくさばになったことがある」

「へえー」


 きょろきょろと小虎子が川縁を見回す。


「攻め上ろうとする犀玄城主のゆう尊兼そんけんと、それを迎え撃つ奏苑城主のてい円陽えんよう。どちらも弱小城主ゆえ、戦舟は持っておらなんだ。陸戦だけじゃな」

「河原がこんな狭いのにですかあ?」

「ははは、わしらが考えずとも、誰が考えても馬鹿げておる。じゃが、彼らは阿呆じゃ。懲りずに兵を出しては、ちょうどわしらのおる辺りで切り結んだ。雌雄など決するはずもない」

「うわあ、ほんとに阿呆だあ」

「三年以上馬鹿げた争いを続けたが、さすがにこれでは埒があかぬことに気付いた」

「もっと早くに気付かなかったんですかねえ」

「そこが阿呆じゃ」

「で、どうしたんですかあ? 和解したんですかあ?」

「いや」


 楊周が、向かいの岩を指差す。


「双方から論客が出てな。相手を論破した方の勝ちということにしてここで会談を執り行った」

「あ、それで会談岩ですか」

「そうじゃ。二人の論客も城主と同じくらい阿呆でな。さっさと和睦して帰ればいいものを、どちらも引かずに言い争いを続けた」


 小虎子がうんうんと納得して頷く。


「そうか。二人ともそのまま石になってしまったという結末ですねー」

「ははは、そうじゃ」


◇ ◇ ◇


 二人はうららかな日差しの下で、向かいの奇岩を見つめていた。


「のお、小虎子よ」

「はい?」

「先ほどおぬしは、争った城主どもを阿呆じゃと言うたな」

「はい」

「じゃが、わしらはその阿呆のもとで暮らしておる」

「あ……」

「世には決まり事が多い。そして、法の全てに意味があるわけでもない。法を決めているのは阿呆じゃ。わしもおぬしも阿呆に縛られておるのよ」

「うう」

「それを忘れるな。そして……おぬし自身は阿呆になるなよ」


 楊周は、向かいの奇岩を指差した。


「あの岩は、城主どもが無駄な争いをするずっと前からある。それに故事を当てはめたのは後世の者じゃ。岩はそんなことを知る由もない。岩の形が変われば。岩はまた、ただの岩に戻るじゃろう。おぬしも、それと同じよ」

「どういうことですか?」

「阿呆に穿うがたれれば、その形になる。己の形は己で穿て。それがおぬしの形じゃ」


 楊周はのっそりと立ち上がった。


「曲がるなよ」



【第十八話 岩 了】

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