第十七話 酔人
「
「ご主人さまは飲んでないんですかあ?」
「いや、飲んでおる。飲んでおるが、わしは酔わん。水と同じじゃ。糜公に申し訳なくての」
「まあまあ。
「ははは。そうかも知れぬな」
楊周と小虎子は、
推久は、世が世なら戦場に血風を吹かせる豪傑でありながら、気取らぬ人となりで城下の臣民に慕われていた。こよなく酒を愛するがゆえに、推久ではなく酔久とも呼ばれており、客人が来るととことん杯を交わして旧交を暖めることでも知られていた。
いかつい体に似合わず、書画をたしなみ詩を詠む風流人でもあり、些事に拘らないおおらかな気風が楊周と共通していた。それゆえ、あまり長居を好まない楊周も推久のところではどうしても長逗留になった。
◇ ◇ ◇
宴席に戻る途中、楊周が何気に小虎子に聞いた。
「おぬしは、酒を飲んだことがあるのか?」
ぼりぼりと頭を掻いた小虎子が答える。
「あるには、あるんですけどぉ……」
「む?」
「覚えてないんですよー」
「ほお」
「十二、三の時に、お酒ってどんな味がするのかなーと思って、宴席に残った酒をこっそり……」
「なるほど。その後記憶がないわけじゃな」
「はい。気が付いたら血塗れの
「なにぃ!?」
「何があったか聞くのも怖くて、それっきり……」
「む」
「父に三日三晩叱られ、母に三日三晩泣かれ。生涯酒は飲まないと約束せよって言われまして」
「したわけか」
「はい」
「もしかしておぬしの
「そうでーす」
楊周は苦笑した。
「そういえば、おぬしの父も酒を好まなかったな」
「はい。嫌いだと言ってました」
「飲んで楽しくなればいいが、必ずしもそうではない者もいるからな」
「わたしは食べる方がいいですう」
「ははは、確かにな」
◇ ◇ ◇
宴席に戻った楊周は、糜公と詩作に興じ始めた。糜公の詩に即興で節を付け、楊周が朗々と歌う。小虎子はそれに聞き惚れた。
「うわ、ご主人さま、上手いなー」
そして、うっかり。手元の杯の中身を確かめずに飲み干してしまった。
「えっ?」
従者の膳は、客のものよりもずっと質素である。しかも、小虎子は警護の従者だ。酒で正体を無くしては任務が果たせないため、酒が振る舞われることなどありえないはずだった。しかし、糜公はとてもおおらかだった。城内でくらい、寛いでのんびりしたらよかろう。従者の小虎子にもそういう計らいをしたのだ。見る見る小虎子の目が赤黒く濁った。
楊周がすぐにその異変に気付いた。
「ま、まずいっ!」
「楊師。どうされましたかな?」
「あやつが酒を飲んだらしい。まずい、まずい、まずいっ!」
娘なのに『虎』を字名で付けるのは、なまなかなことではあるまい。冷静沈着な魏封が、我を忘れて怒り狂うほどの狼藉があったのであろう。楊周の顔から血の気が引いた。
小虎子の許に駆け寄った楊周の頭上を、何かが飛んでいった。と思った時には、そこにはすでに小虎子の姿はなかった。まさに目にも止まらぬ早さで。窓を破った小虎子が、疾風のように館の外に消えた。宴席の一同が肝を冷やす。
「人の……動きではないな」
糜公が漏らした。
楊周も小虎子を追って、急いで館の外に出た。しかし、小虎子の行動が予測出来ない。
「陣を張るにも、居場所が分からねば……」
焦る楊周の頭上で遠吠えの声が響いた。
「うおおおーーーーーーーーーーーん!」
松の木の天辺に上った小虎子が、素っ裸で、月に向かって力一杯吠えていた。それを認めた楊周は、こめかみを押さえながら針を構えた。
「おぬしは
◇ ◇ ◇
翌日寨城を出た二人は、田舎道をのんびり歩いていた。しょげかえった小虎子を、楊周が慰める。
「間違えて飲んでしもうただけじゃろう? まあ、気にするな」
「何かやらかしたんですよねえ、わたし……。ご主人さまに恥をかかせて……すみません」
「いやいや。糜公はとても喜んでおったぞ」
「は?」
「若い娘の裸踊りまで見せてくれるとは、楊師もなんと粋なことをと言うてな」
小虎子は……どこまでも酒が嫌いになった。
【第十七話 酔人 了】
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