小虎子外伝 秋の蝶

 窓際に立って田畑の海を静かに眺めていた優游ゆうゆうを、周泉しゅうせんが咎めた。


「母上、立ち歩かないようにと、医者に言われてますでしょう?」

「横になってるだけは退屈なんだよう」


 優游はぶつくさ言いながら、渋々床に戻った。

 医者は、春までには快癒されるでしょうと気休めを言ったが、自分の体のことだ。もう、残された時間が少ないことは分かる。


「今、お薬をお持ちします」

「ああ、済まないね」


 周泉が部屋を出てすぐ。優游はまた床を出て、窓際に行く。のどかな田園風景の中。一匹の黄色い蝶が、ひらひらと晩秋の空気をかき混ぜていた。優游は、それを見てふと思った。


「ご主人さま。わたしは……これでよかったのでしょうか?」


◇ ◇ ◇


 小虎子は楊周と分かれてすぐ、常庸じょうようで、討伐のため北上したはん将軍に拝謁した。


 謀反の首謀者であるえん史方しほうは、精鋭軍全滅の報を聞いて一斉蜂起した土族に残党ごと捕らえられ、討伐軍の到着を待たずに切り殺されていた。子狩りをした非道さの報いを受けたとも言える。范将軍は首実検をして、それを帝都に持ち帰るだけであった。


「優優さま。楊師はまた一人で旅立たれたと聞いております。わしが警護いたしますゆえ、一緒に都にお戻りください。ご母堂がお待ちでしょう」


 范将軍の厚意を、小虎子は静かに断った。


容仁ようじんさま。暖かいお心遣い、ありがとうございます。ですが、わたしはここに残ろうと思います」

「ここに、ですかっ?」


 将軍は大いに驚いた。北辺の常庸は、これまでもとかく紛争の場になってきた物騒なところだ。何を考えておるのだ!


 笑みを浮かべて将軍の顔を見つめた小虎子が、言葉を継いだ。


「楊師は、わたしにこう言われました。己の才をどう活かすか考えよ、と。二千からの精鋭を一人で倒す楊師の武才は、わたしにはありません。どなたかの妻となって夫や子を支え、養うのも、我が儘なわたしには無理でしょう。苦労知らずのわたしが田を耕したり商いをするのも、田に網を打つようなもの。本当に……わたしには、才はないなあと思います」


 将軍はどう答えていいものか分からず、口をもごもご動かした。


「ですが、わたしにはしたいことが出来ました」

「したいこと、ですか」

「はい」


 小虎子は浮かべていた笑みを消して、きっぱり言い切った。


「こたび、二千の命が失われました。史方にさらわれて命を落とした子供の数は、その数倍にのぼるでしょう。それを……それを、二度と繰り返させたくありません」

「うむ」

「布は必ず端からほつれます。ほつれた布は繕わなくてはなりません。それも、まだ小さいうちに。ですから、わたしはここに残ります。そうして、繕うのに必要な才をこれから積むことにします。そう、母に伝えてください」


 強く輝く小虎子の目を見た将軍は、深く頷いた。


「必ずや伝えましょう。どうぞ健やかに過ごされますように」

「ありがとうございます」


◇ ◇ ◇


 常庸大守の崔炎さいえんは凡庸な小心者であったが、性は悪くなかった。小虎子の後見をせよという范将軍の命を、すんなり飲んだ。乱を平らげたことに対する謝意もあったのだろう。


 当初、小虎子は武術の腕を買われて城門警護の隊長を任ぜられたが、隊員が飲んだくれの怠け者ばかりだったことにぶち切れて、それを崔炎にねじ込んだ。乱があったばかりなのにまるで緊張感が足らぬ、と。困った崔炎は、逆に小虎子に尋ねた。


「そなたならどうするのじゃ?」


 にやりと笑った小虎子は、何事か崔炎に耳打ちした。それを聞いた崔炎が愉快そうに笑った。


「はっはっは。そなた、なかなかの知恵者じゃのう。やってみてくれ」


 それから。城門警護は辺境偵察の兵務と輪番になった。最前線を見ることで、だらけた兵はみな肝を冷やし、規律はきちんと守られるようになった。


 この件を機として、崔炎はことあるごとに小虎子を呼び出し、まつりごとの相談を持ちかけるようになった。また、小虎子もそれによく応えた。

 崔炎は小虎子の武官としての任を解き、書記官に身分を上げて吏府に呼び寄せ、執務室を与えて部下を付けた。小心者の崔炎であったが、からっとしていてあけすけな小虎子に二心のないことを確信したのだ。


 誰もが辺境しか知らぬ常庸の人々の中では、小虎子の経験と知識は群を抜いていた。それは当然のことであった。小虎子は楊周に付いて、諸国のいろいろな政治、文化、情勢をつぶさに見てきたのだ。それらは小虎子にとってだけではなく、大守にとっても常庸に住う全ての人々にとっても、まっこと得難い財産だったのである。


 小虎子は崔炎にこう提言した。常庸を発展させることで、中央の目を常に確保し、要衝としての価値を高める。また、それが民を満足させ、新たな乱が起きる芽を摘むのだと。崔炎は小虎子の提言を受けて、矢継ぎ早に様々な振興策を打ち出した。


 往来における関の基準を緩くし、物流を活発にした。常設の市を盛り立て、付近の町村からの人の流れを作った。用水や貯水池を整備し、飲み水の確保と農業の振興を図った。辺境の土属民との交易を促し、人事交流を密にした。


 打ち出した政策は見事に功を奏し、常庸は瞬く間に発展を遂げた。紛争の種が消え生活が豊かになることで、人心は安定した。遠くの村々からの情報が早く届くことで、危急の備えも整備された。


 崔炎は、四十になった小虎子に大守の座を譲って引退しようとしたが、小虎子は崔炎の要請を固辞した。


「わたしには支えが性に合ってますので、ご子息を支えたいと思います」


 崔炎が息子の崔双さいそうに家督を譲って大守につけてからは、小虎子は副大守として崔双を支え続けた。


 小虎子は、副大守に就いてから名を改めた。父の魏姓を名乗り、名を一字改めて優游とした。小虎子を知る帝都の縁者から帰都を促す声も届けられたが、小虎子はそれを断った。


「わたしには、田舎が合ってます」


 小虎子は独身を通し、食べることをこよなく愛した。いつも笑顔を絶やさず、少しおとぼけで。誰からも『大母たあぼ』と呼ばれ、慕われた。


 執務の合間に、子供たちと一緒になって走り回り、独楽を回し、凧を揚げて遊んだ。盗賊に襲われて両親を失った男の子を養子として引き取り、周泉と名付けてかわいがった。


 時が流れ、六十をいくつか過ぎて。小虎子は、崔双に退職を申し出た。


「わたしは老いました。永きに渡ってお仕えさせていただき、本当に感無量でございます。これからも、従前と変わらず善政を敷かれますように」


 退職して間もなく。小虎子は体に異変を覚えるようになった。死期が近い。そう直感した。


◇ ◇ ◇


 ひらひら。黄色い蝶は、まだどこに留るか迷っているかのように漂っている。


「わたしは。幸せだっただろうか?」


 小虎子は、風に漂う蝶を目で追いながら自問した。ご主人さまは言った。それを決めるのは自分だと。だとすれば。


「わたしは、間違いなく幸せでした」


 そう。わたしは、骨になる前に為すべきことをしたのだ。わたしがここにいる間。戦乱で子を失って嘆く声を聞かなくて済んだ。無辜むこの命を散らさなくて済んだ。わたしは武官である前に。女である前に。人として為すべきことをした。


「ご主人さま。ねえ、そうですよね……」


 目を閉じた小虎子の瞼の上に。蝶が留った。


「母上? 母上ーっ!?」


◇ ◇ ◇


 小虎子の遺体は、遺言によって土葬ではなく荼毘に付され、その骨は細かく砕かれて川に流された。決して骨を残してくれるな。それが小虎子の望みだったのである。


 骨も墓もない。でも、小虎子は残った。


 歌の中に。


 こどもたちが、まりをつきながら歌う。


「大母は大食らい。大母はよく笑う。

 大母は僕らと遊んでくれる。

 優しい優しい大母。だから僕らは大母が大好きさ。

 大母はぼくらみんなの母さんさ」




【小虎子外伝 秋の蝶 了】


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