楊周外伝 樹下

「しくじったのお……」


 楊周は、山中の大木の根元に寄り掛かるようにして、しゃがみ込んでいた。もう三日間、何も飲み食いしていない。いや、それ以前から足がもつれて、もうろくに歩けなくなっていた。


 小虎子との二人旅が終わってからも、楊周は放浪の旅を続けた。しかし、楊周を取り巻く状況はどんどん変わっていった。魏封将軍だけでなく、もっとも親交の深かった瑞賢にも先立たれ、楊周を良く知る文人や官吏もみな老いて退き、亡くなっていった。

 さらに。楊周を深く信頼し、その旅を支えてきた甲李帝こうりていが崩御した。楊周は君主も友も金銭的ないしずえも全て失い、乞食同然になりながらもなお、幽鬼のように旅を続けていた。


「わしは……長生きし過ぎたの」


 楊周はすでに八十の半ばを過ぎていた。いかに楊周の体力が優れていると言っても、忍び寄る老いには勝てない。温暖な南応なんおうに向かおうとして、杖にすがるように山を上がってきたが、峠を目前にしてとうとう力尽きたのである。


 ふう。一息ついた楊周がゆっくり目を瞑る。


 これで良かったのか。それともどこかで間違っていたのか。今となっては、それはどうでもよいことじゃ。


 沈み込む意識とともに、楊周の記憶が巻き戻される。過去へ、過去へと。


◇ ◇ ◇


 楊周は、帝都にほど近い地方都市の下級武官の長男として生を受けた。幼少時から天才の名を欲しいままにし、武術にも学問にもその非凡さを遺憾なく発揮させた。

 さらに。楊周の実家の裏に寂れた寺があり、そこの住職が楊周をかわいがった。住職は本業は生臭だったが、あやかしを見破り、呪術を自在に操った。それを気紛れに楊周に教え込んだ。

 楊周は成人する前に知力、武力、妖力を身に付け、それを駆使できるようになった。早くに完成してしまったのである。


 父親は、楊周が科挙を受け、文官として帝に仕えることを望んだが、楊周は武官を志した。すでにその腕前が知れ渡っていた楊周は、十五で帝都の禁門警備の役に就いたが、すぐにその知謀と力量を買われて騎馬隊に採用され、辺境の反乱制圧で数々の武功を立てた。

 しかし、すでに世の中はほぼ治まっており、大きな戦は無くなっていた。楊周も武人は自分を活かす道ではないと考え、十七で官を辞し、科挙試験を突破して官吏への道を歩み始める。


 その楊周の天才少年としての輝きを、さほど年の変わらない甲李帝は見落とさなかった。世の動揺が治まって、平安な時代を築く礎を整える。機を逃さずに、法を整備しなければならない。既存の法の問題点を洗い出し、新たな法に作り直す。甲李帝が企図したその膨大な事業の主査として、楊周を抜擢したのである。楊周は、まだ十九であった。才気煥発な楊周の働きは目覚ましく、二年で法務院の長官に登り詰めた。法整備に目処が立ったところで、帝は二十二の楊周を側近に取り立てた。


 栄華を極める。まさにその言葉がふさわしい。しかし楊周には一切出世欲がなく、とても淡白であった。自らが望んで官職を求めたことはない。その地位でできることに専念し、力を尽くす。真摯な姿勢あってこそ、帝の信頼も厚かったのだ。世俗に塗れない飄々とした楊周の姿勢は、同僚の官吏よりも、文人に高く評価された。楊周は、多くの文人と友誼を結ぶこととなる。


 帝の厚い信頼を得て、内政の知恵袋として私利私欲に走らず側近を勤め上げた楊周は、やがて国務大臣に推挙されることになった。三十の時であった。


 しかし。


 名家の出ではなく、下級武官の子息が大臣になる。そのことが、数々の嫉妬ややっかみを生んだ。だが楊周の実力が図抜けていたため、それは楊周本人には向けられなかった。矛先は楊周の家族に向けられた。父は職を失い、家を追われた。母は敵対する官吏に籠絡され、政争の具に使われた。弟妹も偉大すぎる兄の影に怯え、散り散りに散った。


 独り身だった楊周は、身辺の騒がしさと家族を失った嘆きを、馴染みの住職にぶつけた。住職は、ぼりぼりと尻を掻きながら事も無げに言った。


「仕方あるまい。負うものが多すぎれば、人は潰れる。清ければ、濁る。持てば、失う。それが世というものじゃ」


 わしがいる限り、それが国家争乱のもとになる。よくよく考えた楊周は、帝に全ての官職を辞して旅に出る旨を告げた。


 帝は狼狽した。


「なぜじゃ! 何が不服じゃ!」

「済みませぬ。それがしがそれがしでありえぬことに、もう耐えられませぬ」

「わしはこれからどうすれば……」

「案ずることはございませぬ。大将軍には魏封を、大臣には呂瑞賢を推挙いたしまする。二人はまだ若輩と言えども志高く、性に邪念なく、その才はそれがしを遥かに凌ぎまする。出自も、国を負うに申し分ありませぬ。ぜひとも高く取り立て、何事もお二人に諮られますよう」

「おぬしはこれからどうするのじゃ」

「それがしは諸国を歩き、帝の御威光が隅々まで届いているかを、命絶えるまで確かめて参ろうと思いまする。帝が良政を敷かれておられる限り、それがしはのんびりと旅が出来まする」


 それを聞いた帝は、苦笑いした。


「おぬしの年で、もう隠居か」

「それがしは、生き急ぎ過ぎました。何卒お許しを」


 楊周の引き止めを断念した帝は、楊周に生涯道中を支えるにふさわしい財を授け、また諸国を査証なしで通行できるよう朱書した書状を与えた。


 それから……長い旅が始まった。


◇ ◇ ◇


 ふう。薄目を開けて、楊周が息をついた。


 わしは、なぜこうまで意固地に旅を続けて来たのであろう? しばらく考えて。楊周は静かに笑った。


 わしは。人が好きじゃ。出来損ないの。弱い。それでも必死に生きている。人が好きじゃ。旅で出会った幾千万の市井の人々。わしは。どんなに高い名声を得るよりも、それらの人々が生きている姿、生きようとする姿が見たかったのじゃ。それと触れ合っていたかったのじゃ。


 そうよの。わしは幸せであった。まっこと幸せであった。


 楊周の脳裏に、ふと小虎子の姿が浮かんだ。のう、小虎子よ。おぬしも生きておるか? 幸せに生きておるか?


「じいちゃん!」


 突然、楊周の横で声が響いた。


「遊ぼうよ。おらはずっとここで待ってて、待ちくたびれたよう。退屈なんだよう」


 粗末な服装のやんちゃそうな男の子が、楊周を見下ろしていた。楊周はそれを見て、目を細めた。


「済まぬ。長ぉ待たせたな。そうじゃのお。何をして遊ぶかの?」

「鬼ごっこしよう! おらが逃げるから、じいちゃん追っかけてな」

「ははは。じいちゃんに、捕まえられるかのお……」


◇ ◇ ◇


 また。いくつもの月日が流れた。


 杣夫そまふが、偶然にそれを見つけた。大木の根元に、蔓で支えられるようにして、身元の分からないむくろが寄り掛かっていた。傍らには、やたらに重い杖が一本。他には何もなかった。


 杣夫は木の根元に小さな穴を掘ると、そこに躯と杖を収めて小さな塚を作り、そっと手を合わせた。


 杣夫が去った後。塚は無数の枯れ葉に覆い尽くされ。


 ……見えなくなった。



【楊周外伝 樹下 了】

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