第十五話 瘤

 最初にその異変に気付いたのは楊周だった。


「おぬしの腕のそれはなんじゃ?」

「ええー?」


 小虎子が、自分の腕を見る。


 右腕の手首から少し上。そこがぽっこりと腫れ上がっていた。少し赤くはなっているけれど、痛みも痒みも全くない。


「蚊にでも刺されたかなあ。でも、全然覚えがないんですけどお」


 違和感だけで、他になにも実害がない。小虎子はほとんどそれを気にしなかった。だが……。楊周は心配そうに、小虎子のできものを見つめていた。


むしでなければ……いいがのう」


◇ ◇ ◇


 楊周と小虎子は、海辺の要都、公薀こうおんに行くため、宜朶山ぎださんを抜けて来た。山は緩やかで、道も険しくはない。しかし地元民の間では禁忌の山とされ、分け入る者はなかった。楊周も、迂回路が崩れていなければ通りたくなかった。


 盗賊も、あやかしも、獣も。何も出ない静かな山道。二人は、半日もかからずに宜朶山を踏破した。


「ご主人さまあ、なんでみんなあそこをそんなに嫌がるんですかあ?」


 楊周が、小虎子のできものをちらりと見る。先ほどよりもさらに大きくなっている。やはり立ち入るべきではなかったか。


「厄介なことに……なりそうじゃな」

「へ?」


 楊周は、それきり口をつぐんだ。


◇ ◇ ◇


 二人は公薀まで行かず、その手前の村に急遽宿を取った。小虎子も、自分の身に起きた異変の重大さに気付いたのだ。先ほどまでは指の先ほどの大きさだったできものが、もう握りこぶしほどに膨れ上がり、その中で何かがうごめいている。


「やはりな……」

「ご、ご主人さまっ。ど、ど、どどど、どうしましょう?」


 うろたえる小虎子を、楊周がどやしつけた。


「落ち着け!」


 楊周は厳しい表情で、小虎子を椅子に座らせた。


「良く聞け、小虎子。こやつはおぬしを乗っ取ろうとする。そのために、おぬしの心を操ろうとする。おぬしの一番弱いところをもてあそぶ。恐怖、劣等感、嫉妬、怠惰、依存癖、貪欲。こやつが、どこからおぬしをさいなむか分からぬ。それに屈すれば、おぬしは終わりじゃ! 良いな。決して負けるでないぞ!」

「は、はひぃ」


 だが。すでに、小虎子の心は折れそうだった。自分が、何か得体の知れぬものに乗っ取られる、その恐怖が小虎子を蝕んでいたのだ。


 小虎子が見ている端から、できものはどんどん膨らみ、自分は萎んで小さくなって行く。できものは自分と同じ姿形を取り、自信に満ちていて、萎んでいく自分を傲然と見下ろしている。


「わたしはね。あんたとは違うの。なんでも出来る。素晴らしい伴侶を得ることも、武官として国に貢献することも。だって、わたしは男なんだもの」


 目の前のできものは、自分から父の姿に変わった。文武に優れ、自分が目標としてきた父の姿に。出来損ないの自分が、それに吸い取られて行く。何もできない役立たずのちっぽけな自分が縮んで行く。ああ……わたしは、もうだめだ……。


 突然、叩きのめすような大声が響いた。


「おぬしは、そんな意気地なしかっ! 自分に克てぬやつは誰にも勝てぬわっ! とっとと往んでしまえっ!」


 むらむらと反発心が沸いた。そうだ。わたしはまだ何もしてない。わたしが出来ることを何もしてない。そんなんで終わるなんていやだ! 絶対にいやだーーーっ!


「くおーーーーーーーーーっ!!!」


 両拳をぎりぎりと握りしめて。渾身の力を込めて。一切の幻影、幻聴を追いやって。小虎子は、自分を引きずり戻した。


 どんどん縮んでいくこぶ。それが小指の先ほどに縮んだ瞬間、楊周が剣を一閃させた。


 ぴしゃっ! 小さな血しぶきが上がって、小虎子の腕から何かが切り離され、楊周がそれを踏み潰した。


 ぐじっ。


「ふう……」


 ぜいぜいと荒い息を吐く小虎子を、楊周が労った。


「よくがんばったの」

「ご主人さま、それは……なんですか?」


惑蟲わくちゅうじゃ。人を乗っ取り、それを食って増える。昔は呪術に使われた。じゃが、あまりに作用が強すぎて廃れた。今は宜朶山にしかおらぬゆえ、誰も分け入らぬのだろう。昔は蟲を封じる結界を張ってあったはずじゃ」


 楊周は小虎子の傷にちまきの飯粒を張りながら、話を続けた。


「じゃがな。こんな蟲でなくとも、人は容易に心を食われる。そして人を、己を傷つけることになる。そうならぬように。己を強く保てよ」


 俯いて楊周の説諭を神妙に聞いていた小虎子であったが、ゆっくり顔を上げるなり……。


「ご主人さま」

「なんじゃ?」

「飯粒ではなくて、粽をくれませんか?」



【第十五話 瘤 了】

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