第十四話 水と月

 楊周と小虎子は、小さな川のせせらぎの音を聞きながらまどろんでいた。


 寨于さいうから養母渓ようぼけい沿いの狭い沢道を下り、壇度たんどに到る。道沿いに民家はおろか、平地ひらちと言えるようなところはどこにもなく、一度天候が崩れると足下も危うくなる。二人と一頭は、二日間休息もろくに取らず、不眠不休で山道を抜けて来た。壇度の集落が見え、ほっとしたところで仮眠を取ったのである。


 さあああああっ。

 岩の隙間を滑り落ちる水の衣擦れの音。その音にあやされるようにして、二人は眠りこけていた。


「もし」


 先に目を覚ましたのは、楊周だった。


「ん?」

「もし、旅の方」


 ふわわわわあ!

 大きく伸びをした楊周が、声のした方を見た。背中一杯にたきぎを背負った男が、二人を見下ろしていた。


「なんでしょうかな?」

「こんなところで眠っていては、風邪を引きまするぞ」

「ははは、お気遣いかたじけない。じゃが、わしらは野宿には慣れておりますゆえ」


 男はこそこそと周囲を見回して、話を足した。


「それに……この辺りは時を問わず水妖すいようがうろつきまする。早く里に降りなされ」

「水妖? こんな細い川に?」

「はい。女に化けて男をたぶらかし、水の中に引きずり込みますのじゃ。それゆえ、わしらは山道を行く時は、行き会うた女と決して口を利くなと言われておりまする」

「む」


 まずいな。楊周は舌打ちした。小虎子が女であることがあらわになると、大事になる。この先しばらく集落はない。壇度で旅支度を整えておかないと、旅が立ち行かなくなるのだ。


 ままよ。楊周は小虎子を起こした。


「これ、小虎子! 起きぬか」

「はわあ? もうご飯ですかあ?」


 むっくり起き上がった小虎子が、ぼりぼりと頭を掻いた。


 どこまでも能天気なやつめ。楊周は男の様子を伺ったが、幸い少年だと思っているらしい。ほっと胸をなでおろした楊周と対照的に、小虎子が何かに勘付いて身構えた。


「ふんっ!」


 小虎子が男に向かって短刀を投げた。いや、男にではなく、薪の隙間にある何か、に。ぴしりと短刀が何かを射抜く音がして、男が腰を抜かした。


「ひやああっ!」

「大丈夫ですよー。小さいけど毒蛇ですねー。ご無事で何よりですぅ」


 目を射抜かれてまだのたうち回っている蛇を、楊周が杖のつかで仕留めた。

 ぐしゃり。


 動きを止めた蛇を見て。楊周は難しい顔をした。


「なるほどな……」


◇ ◇ ◇


 その夜。命を助けられた農夫が、二人を家に招いて歓待した。小虎子が女であるということは、とりあえず棚上げされたらしい。腹一杯食べてご満悦の小虎子が、軒先で月を眺めている楊周に声を掛けた。


「ご主人さまあ。何を見てらっしゃるんですかあ?」


 楊周はそれに答えず、傍らを見て何かに語り掛けた。


「おぬしは寂しかっただけじゃな。それをあのみずちに利用された。何人男が来ても、誰もおぬしを満たせなかったであろう?」


 小虎子が、はっと気付いた。楊周の横に、透けるように色の白い若い女が、俯いて座っている。女は袖で目頭を押さえ、ゆっくりと頷いた。


「水に流せ。月に融けよ。それから、ゆるりと探すんじゃな。わしらも探しておる」


 女は顔を上げて寂しげに微笑むと、楊周に一礼してふっと消えた。そして……季節外れの蛍のような小さな淡いほむらが、月に向かってすうっと上がっていき、月と見分けがつかなくなった。


 楊周はほっと溜息をつくと、小虎子に答える。


「おぬしには縁がなかろうが、情愛はいろいろなものをかたどる。切ないのぉ……」


 縁がないと言われた小虎子はむくれたが、すぐに勝ち誇ったように反論した。


「でも、ご主人さま。わたし、先ほど水浴びの時にあのおっさんに覗かれてしまいました」


 何を自慢しておるのじゃ、こやつは! 楊周は頭を抱えた。


「おぬしが本当に女かどうか、確かめたかっただけじゃろう。おぬしの裸なぞ、わざわざ見るほどのものではないわ」


 その後。小虎子が楊周にしばらく口を利かなかったのは、言うまでもない。



【第十四話 水と月 了】

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