第二話 最後の幻影

「ご主人さまあ。お腹空いたよう」

「さっき食べたばかりだろうが」

「だってぇ、あんなの食べたうちに入らないよう」


 小虎子が情けない声を上げた。


 わしの分まで食料を食い尽くしおって。こいつの大食だけはまったく始末に負えぬ。


「いくらぶつくさ言ったところで、飯は出てこぬわ」

「ちぇー。でも、ほんとにこの道でいいんですかあ? ぜーんぜん人が通ってる気配がないんですけどぉ」

「そりゃそうじゃ。ここは古道じゃ。街道を辿ると幡桐ばんどうまで三日はかかる。藍渓らんけいを下れば一日で行けるからの」


 すっかり荷が減って、驢馬の足取りは軽い。空腹で萎れた小虎子が、とぼとぼとその手綱を引く。


 どちらが驢馬か分からぬの。まったく。こやつはなりは大人なのに、中身がまるっきり子供で困ったものじゃ。

 楊周は、小さく溜息をついて空を見上げた。


「む……」


 先ほどまではきれいに晴れ渡っていた空が、いつの間にか十重二十重に雲に覆われている。


「降るか……」


 呟き終わる間もなく、ほとほとと雨が降り始めた。


「ご主人さまあ。雨ですよう。どこかで休みましょうよう」


 空腹を抱えて歩き続けるのが嫌な小虎子が、足を留めて振り返る。楊周は、立ち止まって思案した。


 この雨では灯りを点せない。山道に歩を進めるのは難しい。最後の四阿あずまやを通り過ぎてから、すでに一刻は過ぎている。そして、この先にはもう人家はなかろう。仕方あるまい。近くで野宿するか。


「あれえ?」


 薄闇の中、素っ頓狂な声を出した小虎子が、少し先の茂みを指差した。


「あんなところにあばら屋がありますよ?」

「ふむ。物好きなところに家を建てるやつもいたものじゃ」


 雨風をしのげるならありがたい。一夜の宿を借りよう。そう決めた二人は、ゆっくりとその小屋に近付いた。


◇ ◇ ◇


 それは、とても奇妙な光景だった。


 辺り一面乾き切った荒れ地なのに、そこにだけ瑞々しい竹林があった。雨に濡れて、竹がこうべを垂れている。その前に小屋があり、しかも灯りが漏れている。


「む……」


 考えていてもしようがない。楊周が小屋の戸を叩いた。


「頼み申す」


 ほどなく戸が開いて、小柄な中年の女が出てきた。貧しい身なりだが、うらぶれた感じはない。はて? 楊周が首を傾げる。


「なんだい、あんたたちは?」

「わしは楊周と申しまする。こやつは従者です。幡桐へ参るのに藍渓を抜けようと思うたのですが、急な雨で往生しましての。庇を貸してもらえませぬか?」

「ふん」


 帰れとも入れとも言わず、女が顔を背けた。


「藍渓を抜けるのは無理だよ。あそこはもう通れない」

「通れない?」

「そうさ。何年か前に大きな落石があってね。道が塞がってる」

「ううむ……」

「山裾の道を回り込めば、義叙村ぎじょそんに出る。街に戻るよりは早く幡桐に着けるだろ。まあ……」


 女は無表情にそう言うと、二人にくるりと背を向けた。


「今夜は泊まってきな。宿のあてもないんだろ?」


◇ ◇ ◇


 雑穀の粥と、少しばかりの炙った干し肉。粗末な食事だったが夕餉はあった。楊周は、不満そうな小虎子を食事が当たるだけましだろうとなだめ、女のもてなしに深謝した。


 女はかまどに大きな薪を焼べると、その前でごろりと横になった。客に床をしつらえるつもりはないらしい。空腹を抑えるには寝るしかないと思ったのか、膝を抱いた小虎子はすぐに寝息を立て始めた。楊周は、杖を立てるようにしてじっとかまどの火を見ていた。


 夜半。突然むくりと半身を起こした女が、楊周に話し掛けた。


「なあ」


 気を張り詰めていた楊周が、慎重に答える。


「なんですかな?」

「一つ頼みがあるんだが」

「馳走になりましたゆえ、わしになしうることならば」

「これを、義叙村の里程標のところに撒いてくれないか」


 起き上がった女は、ゆっくり楊周に近付くと小さな紗の袋を手渡した。


容易たやすいこと。しかと請けましょうぞ」


 それまでずっと仏頂面だった女が、初めて少しく笑った。


「ありがとう。済まないね」


◇ ◇ ◇


 翌朝。夜が明けるか明けないかのうちから、二人はすでに義叙村への路を歩き始めていた。驢馬の手綱を引いていた小虎子が、腑に落ちないという顔で楊周に聞く。


「ねえ。ご主人さまあ。わたしたち、小屋で寝てましたよねえ。なんで夜露でぐしょ濡れなんですかぁ?」

「さあのう」

「小屋も竹林も跡形もなかったしぃ。あの女の人もいなかったしぃ」

「まあ、滅多にないことに立ち会えたということじゃな」

「はあ?」

「八十年に一度の開花じゃ。枯れる前に、どこぞに文を届けたかったのじゃろう」


 楊周が、手にした紗の袋を振る。


 しゃらしゃらと。中の竹の種が鳴った。



【第二話 最後の幻影 了】

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