第二話 最後の幻影
「ご主人さまあ。お腹空いたよう」
「さっき食べたばかりだろうが」
「だってぇ、あんなの食べたうちに入らないよう」
小虎子が情けない声を上げた。
わしの分まで食料を食い尽くしおって。こいつの大食だけはまったく始末に負えぬ。
「いくらぶつくさ言ったところで、飯は出てこぬわ」
「ちぇー。でも、ほんとにこの道でいいんですかあ? ぜーんぜん人が通ってる気配がないんですけどぉ」
「そりゃそうじゃ。ここは古道じゃ。街道を辿ると
すっかり荷が減って、驢馬の足取りは軽い。空腹で萎れた小虎子が、とぼとぼとその手綱を引く。
どちらが驢馬か分からぬの。まったく。こやつは
楊周は、小さく溜息をついて空を見上げた。
「む……」
先ほどまではきれいに晴れ渡っていた空が、いつの間にか十重二十重に雲に覆われている。
「降るか……」
呟き終わる間もなく、ほとほとと雨が降り始めた。
「ご主人さまあ。雨ですよう。どこかで休みましょうよう」
空腹を抱えて歩き続けるのが嫌な小虎子が、足を留めて振り返る。楊周は、立ち止まって思案した。
この雨では灯りを点せない。山道に歩を進めるのは難しい。最後の
「あれえ?」
薄闇の中、素っ頓狂な声を出した小虎子が、少し先の茂みを指差した。
「あんなところにあばら屋がありますよ?」
「ふむ。物好きなところに家を建てるやつもいたものじゃ」
雨風をしのげるならありがたい。一夜の宿を借りよう。そう決めた二人は、ゆっくりとその小屋に近付いた。
◇ ◇ ◇
それは、とても奇妙な光景だった。
辺り一面乾き切った荒れ地なのに、そこにだけ瑞々しい竹林があった。雨に濡れて、竹が
「む……」
考えていてもしようがない。楊周が小屋の戸を叩いた。
「頼み申す」
ほどなく戸が開いて、小柄な中年の女が出てきた。貧しい身なりだが、うらぶれた感じはない。はて? 楊周が首を傾げる。
「なんだい、あんたたちは?」
「わしは楊周と申しまする。こやつは従者です。幡桐へ参るのに藍渓を抜けようと思うたのですが、急な雨で往生しましての。庇を貸してもらえませぬか?」
「ふん」
帰れとも入れとも言わず、女が顔を背けた。
「藍渓を抜けるのは無理だよ。あそこはもう通れない」
「通れない?」
「そうさ。何年か前に大きな落石があってね。道が塞がってる」
「ううむ……」
「山裾の道を回り込めば、
女は無表情にそう言うと、二人にくるりと背を向けた。
「今夜は泊まってきな。宿のあてもないんだろ?」
◇ ◇ ◇
雑穀の粥と、少しばかりの炙った干し肉。粗末な食事だったが夕餉はあった。楊周は、不満そうな小虎子を食事が当たるだけましだろうとなだめ、女のもてなしに深謝した。
女はかまどに大きな薪を焼べると、その前でごろりと横になった。客に床をしつらえるつもりはないらしい。空腹を抑えるには寝るしかないと思ったのか、膝を抱いた小虎子はすぐに寝息を立て始めた。楊周は、杖を立てるようにしてじっとかまどの火を見ていた。
夜半。突然むくりと半身を起こした女が、楊周に話し掛けた。
「なあ」
気を張り詰めていた楊周が、慎重に答える。
「なんですかな?」
「一つ頼みがあるんだが」
「馳走になりましたゆえ、わしになしうることならば」
「これを、義叙村の里程標のところに撒いてくれないか」
起き上がった女は、ゆっくり楊周に近付くと小さな紗の袋を手渡した。
「
それまでずっと仏頂面だった女が、初めて少しく笑った。
「ありがとう。済まないね」
◇ ◇ ◇
翌朝。夜が明けるか明けないかのうちから、二人はすでに義叙村への路を歩き始めていた。驢馬の手綱を引いていた小虎子が、腑に落ちないという顔で楊周に聞く。
「ねえ。ご主人さまあ。わたしたち、小屋で寝てましたよねえ。なんで夜露でぐしょ濡れなんですかぁ?」
「さあのう」
「小屋も竹林も跡形もなかったしぃ。あの女の人もいなかったしぃ」
「まあ、滅多にないことに立ち会えたということじゃな」
「はあ?」
「八十年に一度の開花じゃ。枯れる前に、どこぞに文を届けたかったのじゃろう」
楊周が、手にした紗の袋を振る。
しゃらしゃらと。中の竹の種が鳴った。
【第二話 最後の幻影 了】
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