楊周と小虎子

水円 岳

第一話 竹の波

よう師はもう見えたのか?」

「いえ、付き人が先に着きまして、言付けが。御仙堂みせんどうに寄ってから来られるそうです」

「付き人? そうか。小虎子しょうこしが先に着いているのだな」

「そういう名なのですか?」

「元気な女子おなごだろう?」

「えっ!? あ、あれが女ですか?」

「それを本人の前で言うなよ。食い殺されるぞ」

「あわわ」


 おしゃべりな寧寧ねいねいが、そそくさと部屋を退いた。


 今日も暑い。都を埋め尽くす白壁の家々が、焼けるような陽光を押し付け合い、弾き飛ばされた光が窓の隙間から忍び込んでくる。寧寧が、再びひょいと顔を出した。


はん将軍がお見えですが」

「おお! お通ししてくれ」


 軽装の将軍が、嬉しそうな顔で部屋に入って来た。


「よう瑞賢ずいけんしゅうが来るそうじゃないか」

「もうこの近くまで来られているんですが、御仙堂に寄るそうです」

「は。相変わらず物好きな御方だ」

「全くです」


 私も、久しぶりに旧友に会えるのは嬉しい。だが……。


「将軍。一つ心配事があるんですが」

「ん?」


 将軍が、怪訝そうな顔をした。


「楊師は、よくよく災難に巻き込まれます。案じて小虎子を付けてあるんですが、それを先に帰しているんですよ」

「ふむ」

「御仙堂の辺りは田圃の中。見通しは悪くないと思いますが、近頃どうもいい噂を聞きません。楊師も浮世離れしていますので、何かあったらと」

「確かにそうだな」


 将軍が苦笑いする。


「急いで手の者を何人か迎えに行かせよう」

「小虎子も付けてくださいね」

「承知した」


◇ ◇ ◇


 楊周は、寂れた庵の前で長嘆息していた。


「のう、黄権こうけんよ。そろそろ諦めたらどうじゃ?」


 足下で、黒いごつごつした大きな塊がうごめいている。それがうなり声を上げながら、楊周ににじり寄っていた。だが、楊周に全く動じる様子はない。


「もう御世が代わって久しい。おぬしの仇敵も、その治世も。はるか昔に紙の上に退いた。なぜおぬしだけが、ここに留まる?」

「……ぬ……さぬ……るさぬ」


 黒い塊がぬらぬらと高く伸び上がると、そこからぎらぎら光る目が一つ現れた。その目が楊周に狙いを定め、塊から飛び出た大鎌が振り下ろされた。だが、刃は楊周に届かなかった。


 ぎいん! はるか手前で鈍い音がして、鎌は根本から折れ、粉々に砕けて散った。それにひるむことなく、黒い塊が牙を剥いて楊周に襲いかかった。


 みじゅわあっ!


 異形いぎょうの者がむしゃぶりついた先にはすでに楊周はおらず、代わりに真っ赤に灼けた銅像が立っていた。牙が折れ、炎を吹き出し、腐肉の焼けただれる臭いを撒き散らしながら。異形の者は、それでもなお狂ったように像に食らいつく。


 やがて、その動きは鈍くなり。止まり。像にわずかに焦げついた破片を残して燃え落ちた。


◇ ◇ ◇


 さらさらさら。さらさらさらさらさら。

 細竹をしならせ、さわめかせながら、一陣の風が通る。楊周は、なびく竹の葉越しに、秋の色が混じり始めた空を見上げた。


 ぱたぱたと軽やかな足音が近付いてくるのに気付いた楊周が、ひょいと振り返った。抜き身の細い刀をおもちゃのように振り回しながら、息急き切って小虎子が駆け寄ってくる。


「おお、小虎子。ご苦労」

「ご主人さまあ。なんで、わたしを先に帰しちゃったんですかあ? わたしも遊びたかったのにぃ」


 その返事に呆れながら、楊周が銅像に張り付いた焼け残りの破片を指差した。


「おまえは、こいつをただばらばらにするだけだからな。それだと、またすぐにここへ来なければならん。面倒でな」

「ちぇー」


 小虎子の後ろから数人の凛々しい若武者が現れ、楊周に向かって丁寧に拝礼した。


「楊周さま、ご無事で何よりでございます。范家よりお迎えに上がりました」

「ああ、それはかたじけない。将軍には篤くお礼申し上げる」

「宴席の用意も整っております。瑞賢様もお待ちですので、御車ぎょしゃの方へどうぞ」


 拝礼でそれに応えた楊周が、まだくすぶっている黒焦げの像をこわごわ取り囲んでいた若武者たちの背越しに、焼け落ちた残骸を見遣った。


「月下。ささやく竹の葉擦れを肴に一献、か。おぬしも、いずれはそのくらい身が軽くなるであろうかの」


 そう言って。懐の呪符を、近くの竹の枝に結んだ。



【第一話 竹の波 了】


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