第三話 止水

「むぅ……」


 楊周は、珍しく難しい顔をして白髪をがりがりと掻いた。


「秋の日はつるべ落としと言うが、少しばかり見通しが甘かったかの」

「ご主人さまぁ」


 例によって空腹でへろへろの小虎子が、驢馬の手綱を引きながらぶつくさ言う。


「だあからあ、さっき通り過ぎた町で泊まろうって言ったのにぃ」

「済まんな」

「へ?」


 小虎子は、思わず素っ頓狂な声を上げた。


「珍しいですねー。ご主人さまが素直に謝るなんて」

「やかましい」


 楊周は、立ち止まって空を見上げた。

 まだ充分に明るいが、どんなに急いでも瓦城がじょうに行くには半日以上歩き続けなくてはならぬ。道は険しくないが、とにかく盗賊の多いところだ。夜行を避けるにこしたことはない。


「そうじゃな。忖沢寺そんたくじに世話になるかの。今は無人じゃから、何の遠慮も要らぬ」

「ええー? お坊さんがいないんですかあ?」

「そうじゃ。誰が行っても逃げ出すようでの」

「何か出そう」

「はっはっは。そういうのを期待するのは、おまえくらいのものじゃ」


 小半時歩いた二人は、道沿いに建つ古い寺に辿り着いた。全く物怖じしない小虎子が、三節棍を構えて意気揚々と寺の境内に入っていった。


 ききっ! 突然するどい叫び声が境内に響いて、小虎子が身構えた。二人の前にのっそりと現れたのは、猿。大きいが、ひどく年老いた猿だった。猿の攻撃を警戒した小虎子が構えを取ったが、楊周は猿を一瞥して小虎子を下がらせた。


「これ、小虎子。引くんじゃ」

「ええー?」


 不満そうな顔をした小虎子だが、楊周の命には逆らえない。ゆっくりと後退あとずさった。


 猿は姿を見せただけで、なんらの動きも示さなかった。楊周はしばし猿と見つめ合っていたが、懐から茶菓子を出すとそれを持ってつかつかと猿に近付いた。


「おぬしが寺守りしてくれていたのじゃな。ありがたいことじゃ。今宵わしらはここで世話になるでの。宿代の代わりに食べてくれい」


 猿は少し不思議そうな顔をしたが、差し出された菓子を慎重に受け取ると、すぐにぼりぼりとむさぼった。


「さて、湯を沸かして飯にするかの」


 楊周はそれ以上猿に構わず、驢馬から荷を降ろすと、釜を持ってつくばいに近付いた。蹲の水は鏡のように残照を跳ね返し、辺りを朱に染めている。


 蹲の手前でふと足を止めた楊周が、ぎいっと眉を吊り上げた。


「なるほど。貴様のせいか」


 身構えた楊周は、大地を揺るがすような大音声で小虎子に警告を発した。


「小虎子! 大物じゃ! 手強いぞ! 油断すな!」


 小虎子が三節棍を構えるのと、蹲から何かが飛び出すのが同時だった。楊周の頭上を越えて、びしゃっという音とともに何者かが小虎子を襲った。小虎子は棍で化け物をなぎ払ったが、水を切ったような手応えしか残らない。ひらりと飛び上がった小虎子が楊周の背面に着地し、死角を消す。


「なんでこんなもんが寺におるかの。坊主は全員食われたな」

「ご主人さま、何者なんですか?」

腐水蛇ふすいだよ。止水とまりみずに溜まった邪気から沸く。これほど大きいのは珍しいがな」

「げ……」

「きゃつは一晩かけてわしらをなぶるだろう。最後に蹲に引きずり込むつもりじゃ」

「ど、どうすれば」

「きゃつが蹲に戻った時に、そいつを叩き割れば事足りるんじゃが、問題はその機をどうやって作るかじゃな。木偶でくを使いたいが、この体勢では無理じゃ。困ったのう」

「ちっとも困ったように聞こえないんですけどぉ」

「ほれ、来るぞっ!」


 異臭を放つ泥人形のような塊が、触手をいくつも揺らして蹲の前に立ち上がった。その時だった。


 ききいいーっ!!


 するどい叫び声と共に、その塊に猿が飛びつき、蹲の中に倒れ込んだ。楊周はその一瞬を逃がさなかった。蹲の中に猿が飲み込まれるのと同時に、仕込み杖を一閃させた。


 ぐしゃっ! 鈍い音とともに蹲が粉々に砕け、中から赤茶けた泥と骨が大量に流れ出した。


「ふう……」


 楊周が傍らを見ると、小虎子が泣きそうな顔をしている。


「ご主人さまぁ、あのお猿さん、かわいそう」

「最初、ぶっ飛ばそうとしたくせに」

「えう」

「あの母猿は、子をみんな腐水蛇に喰われとる。敵を討ちたかったんじゃろう」


 楊周は手をぽんと小虎子の頭に乗せると、静かに笑った。


「そういうのをな。読めるように修行せねばならぬ。ただ強いだけではいかんのじゃ。分かったか?」


 ぐう。


 返事の代わりに……小虎子の腹が鳴った。



【第三話 止水 了】


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