第六話 足止め

 二日降り続いた雨が上がり、辺りは一面もやっている。ゆっくり立ち上がった楊周は、納屋の窓からぐるりと周囲を見回した。


 時折鳥の鳴き声が遠くから聞こえるくらいで、のどかそのものの山村の景色。平地ばかりの華中と違い、華南の奥地には緑濃い深山みやまの間に隠れ里のような村が点在する。為政者の力の及ばない寒村。しかし、それゆえ人心は穏やかで、情けも深い。


 楊周が、体調を崩した小虎子を看るため一軒の農家の戸を叩いたのは、三日前のことだった。小虎子の様子を案じた老夫婦が、すぐに納屋をあてがってくれた。母屋は雀の寝床ほどの広さしかない。かえってご不便でしょう、と。


 納屋の中には馬の敷き藁がうずたかく積まれてほんのりと暖かく、その一画が突き崩されたところに小虎子が伏していた。


「ふう……」


 楊周は窓から離れると、熱にうなされている小虎子の額に手を置いて、深い溜息をついた。


「おなごというのは不便じゃのう」


 小虎子の熱はひどく高い。まだ身動きできる状態ではない。しかも、それに月のものが重なってしまっている。幸い老婆がしもを看てくれるので、楊周は慣れない看護をしなくて済んではいるが……。


「医者に診せられぬのがのぉ」


 楊周は、目を瞑って首を振った。小虎子を連れて、瑞賢のところを出て半年。すでに里程は一万里を越えていた。慣れぬ旅の疲れも出たのであろう。あれほど大食の小虎子が、薄い粥をすするだけ。元気だけが取り柄のやつが、ここまでへたばるとはのう。


 老婆が、粥を持って納屋の扉を叩いた。


「お加減はいかがですかの?」

「まだ熱が下がりませんのじゃ……」


 思案顔の老婆が、楊周に済まなそうに言った。


「実は、この村には年頃の若者がおりませぬ」


 はて。そう言えば……。


「年の頃、十七、八になると、みなこの娘さんのように高熱を出して往んでしまいまする……」


 なにぃ!? 楊周がいきり立った。


「では、なぜ村が成り立つのじゃ!?」

「村の外で夫婦めおとになり、子連れで戻れば、もう祟られることはないのですじゃ。わたしらは、子が十五になると村の外に出しまする。子ができるまでは、決して村に戻るなと言い含めましての」


 黙した楊周が八卦鏡を出して、その上に手をかざした。


「ぬ。なるほど」


 含み笑いをした楊周は、老婆に答えた。


「すっかり世話になり申したが、何もお礼ができませぬ。一つだけご恩返しをいたしたいと思いまする。使い古しの馬蹄を一ついただけませぬかな?」

「ようございますが、何をなさるので?」


 楊周はそれには答えずに、ただ笑みだけを返した。


 日が落ちてすぐ。楊周は早足で村落を抜けて、山裾を辿った。川沿いに二十里ほど上がったところに、打ち捨てられたほこらがあって。祠の奥に、二つのまなこ煌煌こうこうと光っていた。


 楊周はその前に立ち、喝破かっぱした。


「ぬしはやり過ぎじゃ! 大概にせいっ!」


 生臭い瘴気が祠からどっと吹き出し、何かが楊周に飛びかかった。楊周はすっと身をかわすと、馬蹄をまるで飴のようにねじってそれを絡めとった。


石女うまずめの悔しさは分かるが、恨みに転ずるな。それは何も生まぬ」


 楊周が見下ろしていたのは、四肢をがっちり馬蹄に押さえ付けられた老いた雌狸めすだぬきだった。狸は牙を剥いてしきりに逃れようとするが、鉄輪かなわは抜けない。


「ぬしが本心から諦めるまでは、それは決して抜けぬ」


 そう告げた楊周が、狸の首を掴んで祠の奥に放り込んだ。祠の扉に呪符を張り、闇の中を取って返す。


 納屋に戻った楊周の目に飛び込んできたのは……。


「うあー、腹減ったー。あ、ご主人さまぁ、こんな夜中にどこ行ってたんですかぁ?」


 がつがつと無邪気に大飯を食らっている、小虎子の姿であった。



【第六話 足止め 了】





注:一万里=約800キロメートル

二十里=約1.6キロメートル



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