第五話 旱

「おかしいのお」


 楊周と小虎子は、並んで刈り入れの終わった田を眺めていた。


 元々雨の少ない地ではある。しかし、田ががりがりに干涸びて、泥が煉瓦のごとく深くひび割れているのは、異様な光景だ。通りがかりの農夫に聞けば、もう三か月以上一滴の雨もないと言う。


「この度の日照りはひど過ぎる」


 老爺は、そうぼやいた。


「川はほとんど水が絶えてしもうた。井戸も水が引いてひどく汲みにくくなった。何より牛馬にやる草が手に入らなくてのう」


 三人で、雲一つない蒼天を見上げる。小虎子が、不安そうに眼をしばたかせた驢馬のたてがみを優しく撫でた。


「よしよし、心配するな。わたしが食べるものを探してやるからな」


 優しいのう。腹が減ったらお前を食ってやると言うかと思うたが。楊周は、小虎子から顔を背けて少しく笑った。


 力なく行き去った農夫の背を見送った二人が、乾き切った農地を見渡した。


「さて、どうするかじゃな」


 腕組みした楊周がしばし思案した。


「州都の萬陽ばんようはすぐ近くじゃが、この日照りでは、わしらは間違いなく疎まれる。川を上るか」

「引き返さないんですかあ?」

「大河のある仁双じんそうまで戻るには、十日はかかるぞ」

「そうでした……」

古斗渓ことけいさかのぼることにしようか。ちと確かめたいことがある」


 二人は、髪一筋ほどの水しか流れていない川床を、ゆっくりさかのぼり始めた。


◇ ◇ ◇


 二日かけて深い谷間を遡る。古斗渓の流れは、髪一筋から腕ほどの太さになり、やがて水音が聞こえるほどの流れになった。


「ご主人さまあ、おかしくないですかあ? 川上に行くにしたがって水が増えてますよう?」

「おかしくはない。水が途中で伏せてしもうてる」

「伏せる?」

「そうじゃ。れきの多い川では、水が減ると礫の隙間に流れが隠れてしまうでの」

「あ、そういうことか……」

「まあ、それだけではなさそうじゃが」


 楊周は、そう言って顔を曇らせた。


◇ ◇ ◇


 やがて二人の行く手は、切り立った崖に阻まれた。


「ご主人さまあ、ここが行き止まりですかあ?」

「いや、普段ここは滝になっておるはずじゃ」


 楊周は崖を見上げて顔をしかめると、崖の下を丹念に見回り始めた。そして、何かを見つけて長嘆息した。


「やはりのう……」

「何があるんですかあ?」

「浅はかな修験者もいたものじゃ」


 楊周が指差したところには、朱も鮮やかな呪符がべたりと岩に貼られていた。


「萬陽の長官は暗愚でのう。己の力を誇示したくて、生臭修験者に竜封じをさせよったのだろう。じゃが、竜は雨の守護者じゃ。封じれば日照りになることくらい分からんのか。たわけめ!」


 鬼のような形相で、楊周が呪符を睨みつけた。小虎子は凄まじい気の放出を感じ取って、ぞくりと身を震わせた。


「結界ごと切り捨てる。小虎子、危ないから下がっておれ!」


 仕込み杖を抜いて構えた楊周が、小虎子を退避させた。


「ちぇえええいっ!!」


 殺気をみなぎらせた楊周が、目の前の岩を斜めに薙ぎ払った。その途端、稲妻のような光と爆音が谷間に響き渡った。ふうふうと荒い息を吐く楊周の目の前で、呪符を乗せた岩の破片がずるりと滑り落ち、川床に落ちて砕けた。


 ぱん。


 直後。楊周の足下に小さな白蛇が現れ、くるくると何度か回った。楊周は、白蛇に向かって深く詫びた。


「相済みませぬ。人間は、これほどまでに愚かでありまする。ですが、見捨てないでくださいませぬか?」

「わっ!」


 小虎子が驚いてのけぞった。蛇の姿が消えると同時に白い装束を身に着けた女人が表れ、楊周と小虎子に向かって深々と頭を下げた。楊周は女人の前に静かに拝伏した。小虎子も慌てて、それにならった。二人が顔を上げた時には、女人の姿は消え失せていた。


「さあ、急いで戻るぞ。猶予がないっ!」

「へっ!?」


 血相を変えて川下に走る楊周を見て、慌てた小虎子が驢馬の尻を叩いた。


 二人は食うや食わずで丸一日走り続け、ようやく尾根道に上がれるところに辿り着いた。川を離れて尾根に取り付いた楊周が、喘ぎながら小虎子に声を掛ける。


「はあふう。小虎子よ。よく見ておけ。おそらくおぬしが見られる最初で最後の昇竜じゃ」


 恐ろしいほど分厚い黒雲に覆われていた空をまっ二つに引き裂いて、巨大な稲妻が地を叩いた。


 ががあああん!!


「萬陽の吏府りふに落ちたな。当然の報いじゃ」

「竜の怒り、ですか?」

「竜は清い。そんなことはせぬ。あれは、自業自得よ。竜を封じるほどの強い術は、それが破れた時に全て自らに返ってくる。それだけじゃ」


 楊周は、真っ直ぐに宙天を指差した。


「あああっ!」


 つられて空を見上げた小虎子が、絶叫一つ。その後言を失って空を見上げ続けた。


 神々しく金色に輝く竜が、十重二十重に空を埋め尽くしていた分厚い雨雲を自在に切り裂くようにして、どこまでも高みを目指し昇っていく。


 ぽかんと口を開けてそれを見届けていた小虎子を、楊周が冷やかした。


「小虎子。その口はそろそろ閉じておいた方がよいぞ」


 楊周がそう言い終わらぬうちに。滝のような雨が……降り始めた。



【第五話 ひでり 了】

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