第十一話 嫌な爺

「厄介なことになったのう」


 楊周が、聞こえぬほどの小声でこぼした。小虎子はいつものように腹ぺこへこたれ状態だったが、今日はいつも以上に元気がない。


 そう。楊周と小虎子の後ろを、付かず離れずに歩いているじじい。これがまた、とんでもないやからだったのだ。


「どこまで一緒に来るのかのう」


 少々のことでは堪えない楊周が、珍しくぼやいた。


◇ ◇ ◇


 事の起こりは、昨夜泊まった宿だった。


 二人がこれから向かう猶嶽ゆうがくでは、明日から大きな市が立つ。市に荷を運ぶ者、買い出しに近隣の村から出向いた者。取り締まりの役人、大道芸人やこそ泥ども。宿は雑多な人々でごった返していた。


 大都市と違い、地方の大きな市は祭りの様相を帯びる。宿の賑わいも猥雑で明るい。少々狭苦しかったが、小虎子はすっかりはしゃいでいた。


「ご主人さまあ! 楽しみですぅ! どんなおいしいものがあるんでしょうねえ!」

「おぬしの頭には、食い物のことしか入っとらんのか!」


 楊周は半ば呆れながらも、仕方あるまいと諦める。枯れた老人との二人旅では、何も娯楽がない。年頃の娘にとっては、少々酷な役回りだ。


 もっとも小虎子が、服や装飾品に興味を示すとは思えぬがの。相変わらずの男勝りで、時折出会う美男子にも全く関心を示さぬ。まあ、それがあやつじゃ。じゃが、食うという欲がはっきり見えるのは、決して悪いことではないからな。


 上機嫌の小虎子をにこにこと見守っていた楊周であったが、それがとんでもない災厄を呼び込むことまでは、さすがの楊周でも予想出来なかった。


 二人にあてがわれた小さな部屋に、宿の主人がひょいと顔を出した。


「お客さま。相済みませぬ。今日はひどく混み合っているので相部屋をお願い出来ませぬか?」


 狭い部屋だが、もう一人くらい入らなくはない。


「構わぬよ」

「ありがとうございます」


 引っ込んだ宿の主人と入れ替わりで入ってきたのが、その爺だった。


 風貌は異様そのもの。小太りなのに、鷹揚さは微塵もなく。苦虫を噛み潰したようなへの字口。猜疑心剥き出しの細く吊り上がった目つき。不都合なことは何も聞かぬと潰れた耳。せかせかと足を揺すり、しきりに芋のような鼻を鳴らす。煮締まったようなぼろぼろの衣からは、垢だらけの手足がはみ出していて、足は裸足。手にしている木の枝の先に、小さな風呂敷包みが一つ結わえてあって、持ち物はそれだけのようであった。


「けっ! 爺が若い娘をたらし込んでの諸国行脚か。いい身分だの」


 開口一番がそれであった。その後は、まさに罵詈雑言。嫌みの洪水が、途切れることなく続いた。夕食の時も二人から離れずに悪態をつき続け、夜は夜で激しいいびきと寝言で二人を悩ませた。その爺は、夜が明けて宿を発つ段になっても二人から離れず、ぴたりと後に付いて歩き始めた。大声で二人をあげつらいながら。


 楊周は、この爺の口に栓をねじ込んでやりたいと思いながらも、どこか割り切れぬものを感じていた。

 この爺の言うことはからい。刺だらけだ。しかし性を隠している小虎子を最初から女と見抜き、わしの行動を放浪と見抜いた。こやつ、ただ者では……ない。楊周が急に考え込んだのに気付いた小虎子が、振り向いて声をかけた。


「ご主人さまあ、どうなさったんですかあ?」

「ん? ああ。ちょっとな……」


 楊周は振り返って爺をじっと見据えた。数歩離れたところから、枝を振り回しながらずっとがなり続けていた爺が急に黙った。


「ちっ、つまらぬ」


 そう言い残して。爺の姿が急にかき消えた。


「……やはりか」

「えっ!?」


 急にうるさい爺がいなくなったことに驚いた小虎子が、慌ててきょろきょろと辺りを見回した。


「あ、あれえ? あの爺さんどこへ行ったんでしょ?」

「もう、おらぬ。諦めたのだろう」

「諦めた?」

「そうじゃ。あれはな……」


 楊周がくつくつと笑いながら答えた。


「貧乏神よ。あやつは、わしらの不平、不満を食って肥る」

「げ!」

「まあ、実害はない。あやつがいるから貧乏になるわけではないからの」

「そうなんですか?」

「そうじゃ。わしをすがれた世捨て人だと思うて、たかりに来たのじゃろう。でも、わしもおぬしも気楽に生きておる。食えるものがないので、わしらを困らせて不平や不満を抱かせようとした。じゃが、わしが見破ったので逃げたということじゃな」

「はあ……」


 楊周がにやにやしながら、小虎子に言い渡す。


「まあ、猶嶽ではしっかり楽しんで来い。空きっ腹を抱えたままなら、またぞろ貧乏神に憑かれるかもしれぬ。あの爺、やかましうて敵わんからな」


 そうして、高くなった空を見上げて腹の底から笑った。


「はっはっはあ。わあっはっはっはっはあ!」



【第十一話 嫌な爺 了】

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