第十話 血

「ちっ!」


 舌打ちの音が聞こえて、驢馬の手綱を引いていた小虎子が振り返った。


「あれ? どうしたんですかあ? ご主人さまぁ」

「ちと、しくじったな」


 楊周が、ぷらぷらと左手を振った。その指先からぽとりと血が滴った。


「あら」


 小虎子が慌てて裂き布を作ろうとし、楊周がそれを止めた。


「よいよい。すぐに塞がるじゃろう。野茨のいばらの刺で引っ掛けてしまったようじゃ」


 血の滴る指を口にくわえた楊周を見て、小虎子はなんとなく子供っぽい仕草だなと思った。そして、ふと浮かんだ疑問が頭から離れなくなった。


 瑞賢さまのところを出されて、ご主人さまに付いて諸国を歩き回って二年。瑞賢さまが心配していたように、ご主人さまにはありとあらゆる厄災が降り掛かる。それをもたらすのは、夜盗のような人のこともあれば、わたしの伺い知れないあやかしのこともある。だけど、ご主人さまはその厄災をむしろ楽しむかのようで、一度も苦にされたことがない。


 まあ、それはいい。でも……それだけの厄災に見舞われながら、ご主人さまが血を流したり、返り血を浴びるというのを一度も見たことがない。剣を持ちながら、それを人に向けたことがないのだ。ご主人さまの剣は、破邪の剣。それも、危急の時にしか抜かない。


 小虎子は首を捻った。


 父さまから習ったのは、体術よりも剣術の方がずっと多かった。剣、そうきゅう。武器の扱いを繰り返し訓練し、体術は剣撃の間合いを取るため、もしくは最後の護身手段として教わった。


 ご主人さまの強さは、剣も体術も図抜けているのに、なぜそれを使わなくても済むのだろう? 血を流さなくとも済むのだろう?


 子供っぽく指をくわえている楊周を見ながら、小虎子は深く考え込んでいった。考えたからといって、分かるものでもないのだけど……。


 ふと。顔を上げて野を見渡す。実りの時期は盛りを過ぎ、これからは厳しい冬の試練が待ち受ける。わたしも。このままではいけないのだろう。いつまでも、ただご主人さまに付いているだけではいけないのだろう。

 瑞賢さまが、わたしをご主人さまに伴わせた意味。守られる必要のない方に、わたしが付いている意味。そろそろ……深く考えなくてはいけない。もうすぐ冬が。冬が来るのだから。


 がさがさがさっ!


 突然道沿いの薮から大きな音とうなり声が聞こえて、小虎子が身構えた。だが楊周は、その音がした方に向かって無頓着に薮をかき分けて行く。それを見た小虎子が嘆息した。


 はあ……。あれだけは、わたしには絶対に真似ができない。どうして無防備に危機に向かっていけるのだろう?


「む」


 楊周が、辛そうな顔で何かを見下ろした。小虎子もこわごわ近くに寄る。そこに居たのは、腹の裂けた血塗れの山犬だった。近くには子犬の死骸が散乱している。母犬はまだ生きていて、荒い息を吐きながら楊周を睨んでいた。


 楊周は、慎重に周囲を見渡した。


「来るぞっ! 小虎子! ぬかるな! 狂った獣は動きが読めぬ!」


 楊周の警告直後、地を蹴るすさまじい音とともに大きなししが二人の在所に突っ込んで来た。牙をぬらぬらと血で汚し、それを無闇に振り回しながら。


 ふっと飛び上がった楊周が、杖のつかを猪の脳天にしたたかに落とした。


 こーん!

 甲高い音がして。どっと倒れた猪は、すぐに動かなくなった。


「ご主人さま。仕留めたんですか?」

「いや、目を回しただけじゃ。そのうち目を覚ますじゃろう」


 楊周が草の葉で猪の牙の血を拭き取る。それから針を出して、倒れ伏していた山犬の首にぷすりと打った。


「猪はおぬしを食い、おぬしも猪を食う。それは、生きるための業じゃ。恨みを残すでないぞ」


 目を閉じていく山犬の額をなでながら、楊周はそう呟いた。


◇ ◇ ◇


 野を抜けて、養家村ようかそんの集落がぽつぽつと見えて来た。小虎子は、先ほど覚えた疑問を楊周にぶつけてみる。


「あの……」

「なんじゃ?」

「ご主人さまは、なぜ流血を嫌うのですか?」

「血の好きなやつは鬼畜じゃろう」

「それはそうですが……」


 楊周が、ふと立ち止まる。


「小虎子よ。人も獣じゃ。血の臭いを嗅げば狂う。ひとたび狂えば、倒れるまで正気には戻らぬ」

「は……い」

「わしは、それが嫌いなだけじゃ」



【第十話 血 了】

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