第十二話 淡月
「もう……十年も経ちましたかのう」
「はい、早いものですね。わたくしもすっかり年を取りました」
「いやいや、まだまだお若い」
「いいえ、心がね」
質素な小さな部屋。優雅な手つきで茶碗を持った
「暮らし向きはいかがかな?」
「おかげさまで、わたくし一人で過ごす分には過不足がありません。ありがたいことです」
それを聞いた楊周が顔を曇らせた。
当代無二の書家として名声を思うがままにした
しかし章洲は蓄財には全く興味がなく、金の話を極端に嫌った。依頼がない限りは筆を取らず、もっぱら書斎から庭を眺めて過ごしていたという。その章洲の急死後、賛夫人を取り巻く環境は一変した。最愛の夫を失っただけでなく、収入がなくなったのである。賛夫人は夫の想い出の詰まった家屋敷を売り払い、使用人に暇を出して、田舎に人知れず蟄居した。
章洲の才を惜しんだ瑞賢が、
やんぬるかな。瑞賢は嘆息し、わずかばかりの生活費を、賛夫人に近い使用人を通してこっそり渡していた。それが、賛夫人の唯一の糧道だったのである。
章洲と少なからず親交のあった楊周は賛夫人の様子を気にかけ、折りに触れて庵に寄ることにしていた。
◇ ◇ ◇
きれいなおばさんだなあ。小虎子は、賛夫人に見とれていた。
ご主人さまの話だと、もう五十は越えてるんだよねえ。とってもそんな年には見えない。物腰の柔らかい上品な人。もの静かで、にこにこしてる。
小虎子は賛夫人から目を離すと、窓から空を見上げた。暮れ始めた空に少しだけ雲が浮かんでいる。ふと。その空の中に、母の姿が浮かんだ。
「お母さま。元気でいるのかなあ……」
いつもいつも顔を合わせる度に、行儀が悪い、がさつでいけない、女の子らしくなさいと小言を言われ、逃げ回っていた。瑞賢さまのところに行かされたのも、行儀見習いのため。猛反発したわたしに恐れをなして、瑞賢さまは初日で諦めたのよね。
わたしがご主人さまについて旅に出る話をお母様にした時には、絶句してた。でも、結局何も言わなかった。行けとも、行くなとも。小虎子は、なぜ母が自分に何も言わなかったのかを思い返した。しかし、そのわけは分からなかった。母の寂しそうな目付き。それだけが記憶に焼き付いていた。
ふう。だから秋は嫌いだ。小虎子は、空に向かってそう呟いた。
つ、と。賛夫人が立ち上がって、窓際にいた小虎子の側に寄った。同じように窓から空を眺める。月が、小さなかぎ裂きのように、空に挟まっていた。
「
小虎子は、
「楊周さまがいつもお側におられるので、とても心強うございましょう?」
「はい……」
「幸せな時間は早く行き過ぎます。どうか、一刻も無駄になさいませぬよう」
◇ ◇ ◇
二人は日没とともに、賛夫人のもとを辞した。
いつもは腹減った行進曲を垂れ流す小虎子が、わずかな月明かりに打ちひしがれるようにして、驢馬の手綱を引く。
「ご主人さま」
「なんじゃ」
「わたしは……幸せなんでしょうか?」
楊周は、ふっと笑った。
「それは。おぬしが決めることじゃな」
【第十二話 淡月 了】
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