第十二話 淡月

「もう……十年も経ちましたかのう」

「はい、早いものですね。わたくしもすっかり年を取りました」

「いやいや、まだまだお若い」

「いいえ、心がね」


 質素な小さな部屋。優雅な手つきで茶碗を持ったさん夫人が、寂しそうに微笑む。


「暮らし向きはいかがかな?」

「おかげさまで、わたくし一人で過ごす分には過不足がありません。ありがたいことです」


 それを聞いた楊周が顔を曇らせた。


 当代無二の書家として名声を思うがままにしたゆう章洲しょうしゅうが、突然世を去って十年。章洲は、その実力とは裏腹にとても神経が細かった。書の依頼があっても自宅を出ることはなく、もっぱら賛夫人が応対にあたってきた。賛夫人は美貌の持ち主でありながら貞淑で慎ましく、なおかつ実務にも長けており、章洲は夫人を溺愛していた。誰もが認めるおしどり夫婦だったのである。


 しかし章洲は蓄財には全く興味がなく、金の話を極端に嫌った。依頼がない限りは筆を取らず、もっぱら書斎から庭を眺めて過ごしていたという。その章洲の急死後、賛夫人を取り巻く環境は一変した。最愛の夫を失っただけでなく、収入がなくなったのである。賛夫人は夫の想い出の詰まった家屋敷を売り払い、使用人に暇を出して、田舎に人知れず蟄居した。


 章洲の才を惜しんだ瑞賢が、甲李帝こうりていに賛夫人を慰撫いぶする旨上申したものの、多くの宮廷文人を抱えるみかどは、章洲だけを特別扱い出来ぬとそれを突っぱねた。

 やんぬるかな。瑞賢は嘆息し、わずかばかりの生活費を、賛夫人に近い使用人を通してこっそり渡していた。それが、賛夫人の唯一の糧道だったのである。


 章洲と少なからず親交のあった楊周は賛夫人の様子を気にかけ、折りに触れて庵に寄ることにしていた。


◇ ◇ ◇


 きれいなおばさんだなあ。小虎子は、賛夫人に見とれていた。


 ご主人さまの話だと、もう五十は越えてるんだよねえ。とってもそんな年には見えない。物腰の柔らかい上品な人。もの静かで、にこにこしてる。


 小虎子は賛夫人から目を離すと、窓から空を見上げた。暮れ始めた空に少しだけ雲が浮かんでいる。ふと。その空の中に、母の姿が浮かんだ。


「お母さま。元気でいるのかなあ……」


 いつもいつも顔を合わせる度に、行儀が悪い、がさつでいけない、女の子らしくなさいと小言を言われ、逃げ回っていた。瑞賢さまのところに行かされたのも、行儀見習いのため。猛反発したわたしに恐れをなして、瑞賢さまは初日で諦めたのよね。


 わたしがご主人さまについて旅に出る話をお母様にした時には、絶句してた。でも、結局何も言わなかった。行けとも、行くなとも。小虎子は、なぜ母が自分に何も言わなかったのかを思い返した。しかし、そのわけは分からなかった。母の寂しそうな目付き。それだけが記憶に焼き付いていた。


 ふう。だから秋は嫌いだ。小虎子は、空に向かってそう呟いた。


 つ、と。賛夫人が立ち上がって、窓際にいた小虎子の側に寄った。同じように窓から空を眺める。月が、小さなかぎ裂きのように、空に挟まっていた。


優優ゆうゆうさまですね。わたくしは、魏将軍にも奥様にも何度かお会いしております。お噂はかねがね」


 小虎子は、字名あざなではなく本名を呼ばれたことに驚いたが、自分ではなく薄い月を見上げながら話すその口調に、不思議な感覚を覚えた。


「楊周さまがいつもお側におられるので、とても心強うございましょう?」

「はい……」

「幸せな時間は早く行き過ぎます。どうか、一刻も無駄になさいませぬよう」


◇ ◇ ◇


 二人は日没とともに、賛夫人のもとを辞した。


 いつもは腹減った行進曲を垂れ流す小虎子が、わずかな月明かりに打ちひしがれるようにして、驢馬の手綱を引く。


「ご主人さま」

「なんじゃ」

「わたしは……幸せなんでしょうか?」


 楊周は、ふっと笑った。


「それは。おぬしが決めることじゃな」



【第十二話 淡月 了】

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