第二十二話 北へ

 薄ら寒い風が吹きすさぶ中を、俯いてとぼとぼ歩く驢馬を引いて、田舎道を急ぐ影が二つ。楊周も小虎子も、無言で歩き続けていた。


 小虎子は、時々振り返って楊周を見るが、楊周の目には何も入っていないようであった。


 何があっても飄々として、余裕を失ったことのないご主人さま。これほど張り詰めた様子を見るのは、初めてだ。


 小虎子は視線を前に戻して、広々とした空を仰ぐ。冬の。匂いがする。


◇ ◇ ◇


 ご主人さまと旅をして、六年が過ぎようとしている。ご主人さまは、瑞賢さまが亡くなられてからすっかり無口になってしまった。瑞賢さまを失った悲しみよりは、もっと深いところで何かを憂いているように思える。それが何かは、わたしには分からない。


 瑞賢さまのご葬儀に列席されるため、ご主人さまは帝都に戻り、数日滞在された。その間、一度だけみかどにご面会されたと聞く。そこで何が話し合われたのかは、わたしは知らないし、知るよしもない。


 自宅に戻って待つように言われたわたしは、久しぶりに再会したお母様に旅の話をせがまれた。ご主人さまと諸国を歩き回って、出会った人々、遭遇した災厄、数々の戦い、楽しかったこと、悲しかったこと。何も包み隠さず、全て話した。


 静かにそれを聴き続けてくれたお母様が、最後にわたしに尋ねた。


「それで。優はこれからどうするの?」


 わたしがずっと考えたくなかったこと。ご主人さまからも投げかけられていた重い問い。


『己の才を活かす道を考えよ』


 ご主人さまは、『己』ではなく『己の才』と言った。己を活かすと考えれば、答えは己にしか帰って来ない。そう言いたかったんだろう。でも。まだわたしは何も考えていなかった。いや、考えられなかった。


 自分を立てる才すらもないのに、わたしが生きていけるだろうか? 一人で生きていけるだろうか? 夜ごと悪夢のようにわたしをさいなむ重石。


 わたしは、こう答えるしかなかった。


「まだ……分からない」


 お母様は、わたしが旅に出た時のように、少し困ったように微笑んだ。


 ああ、そうか。やっと分かった。わたしが旅に出る時に、お母様がわたしに何も言わなかったわけ。どんなことがあっても、わたしが自分で決めたことならばそれを貫けるだろう。余計なことを言ってわたしの道を曲げたら、わたしはそれを一生言い訳にしてしまう。女であることを言い訳にしてたみたいに。


◇ ◇ ◇


 帝との会談のあと。楊周は厳しい表情で、旅の支度を始めた。そして小虎子を追い立てるようにして、足早に帝都を発った。


「ご主人さま。今度は、どちらに行くんですか?」


 いつもなら、さあなとはぐらかす楊周が、目的地をはっきり口にした。


北辺ほくへんに行く。まず、常庸じょうよう。それから、鬼堂村きどうそん

「はい!」

「時間がない。寒い中、厳しい旅程になるでの。覚悟してくれ」


 小虎子は思った。目的地があって急ぐのならば、なぜ馬を飛ばさないのだろう?


 ただひたすら北を目指す厳しい旅程であったが、楊周は珍しく野宿をしなかった。夜は旅籠で暖かい食事と寝床にありつける。小虎子にとっては、昼の行程がどんなに厳しくても、寛げる夜が約束されていることが嬉しかった。


 しかし。ここでも楊周の様子は今までと違っていた。小虎子に目を向けることは全くなかった。いつも周囲を伺い、宿泊客の様子を注視し、会話に聞き耳を立てている。


 小虎子は。なんとなく、楊周の意図を汲んだ。何かが……北で起きている。ご主人さまは、それを確かめているのだ、と。


◇ ◇ ◇


「常庸に入ったな」


 抑揚のない声で楊周が言った。


「ここまでは、まだ及んでおらぬということか……」


 賑やかな人の往来に目をやって、ぼそりと楊周が呟く。


「ご主人さま、どういうことですか?」

「おぬしはおかしいと思わぬか? わしらはこれだけ無防備に歩いておるのに、亥州いしゅうに入ってからは、盗賊の気配すらない」


 そう言えば……。小虎子は、なぜかぞくりと寒気を感じた。


「盗賊も恐れるものが出没するということじゃな。それは、鬼堂村に行けば分かる」

「ここから近いのですか?」

「二百里ほどじゃ。鬼堂村から先は、もうどこも村の体をなしておらぬようじゃ。そこが飲み込まれれば……」


 楊周が杖で地面を強く突いた。


 どん!


「次はここじゃな。そして、ここから先はもう歯止めが利かぬ。なんとしても食い止める!」

「ご主人さま、あの……相手は?」


 楊周は北の方角を睨みつけて、短く言った。


「すぐに分かる。さあ、明るいうちに鬼堂村に入るぞ!」




注:二百里=およそ16キロ。



【第二十二話 北へ】


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