第八話 釣り人

 ばくを出た楊周は、まだ開け切らぬ空を見上げ、川霧にむせて一つ咳をした。


 こん!


 その音はどこにも留まらず、霧の中に溶けていく。


 楊周と小虎子は、昨夜遅くに梨公村りこうそんの郊外に辿り着き、川沿いに立つにれの大樹の下にばくを張って、夜露をしのいでいた。急ぐ旅でなし。楊周は昼まで惰眠をむさぼるつもりだったが、小虎子の腹の虫がうるさくて朝早くに目が冴えてしまったのだ。


「ふう……寒くなってきたの」


 楊周が懐手をして、川面を見つめていた時。その男は現れた。


 長身痩躯ちょうしんそうく。三角帽を目深に被っているので、顔は見えない。楊周がいることに全く頓着せず、無言でゆっくりとその前を横切り、十間じっけんほど川上の大きな敷石の上に腰を下ろした。


 男は懐からするすると竿を出すと、それを振って糸を水面に垂らした。川面の小さな波紋が消えた後は、ひたすらじっと川面を凝視している。何も言わず、ただひたすらに。


「変わった釣り人じゃな」


 楊周はいぶかりながらも、男の釣りの邪魔をしないようゆっくりと幕に戻った。楊周が寝直してほどなく、空腹に耐えかねた小虎子が跳ね起きた。


「も、もう我慢できなーい!」

「これ、朝っぱらからやかましいわっ!」


 楊周が一喝する。


「ほれ」


 起き上がった楊周が小虎子に手渡したのは、投網。


「この川は魚影が濃い。おぬしの腕前がどんなにへぼでも何かは獲れるじゃろう」

「ええー、ご主人さまあ、わたしこんなの使ったことないよう」

「まったく使えぬ従者ずさよのお」


 むくれた小虎子を幕から引きずり出した楊周は、幕から十数間川縁を遡り、そこで川面に網を打ってみせた。


 ぱしゃっ! 網はきれいな半球状に川面を捉え、引かれた網の中には銀鱗を光らせたはやが何匹も入っていた。


「うわ、すっごーい!」

「感心してる場合か。お前もやれい」


 もともと勘のいい小虎子だ。すぐにこつを覚え、二人の足下に魚が山をなした。


 楊周が、ふと川下の釣り人に目をやった。

 おかしいのお。これだけ魚影の濃い川じゃ。もうかなり釣り上げていてもいいはず。何を狙っておるのじゃろう?


 火をおこした小虎子は、男の様子を気にしている楊周には目もくれずに大喜びで魚を串に通していった。


「獲り過ぎたと思うたが、心配はなさそうじゃの」


 楊周は微苦笑した。


 割いた腹に臭い消しのよもぎを揉んで詰め、塩をまぶして遠火であぶる。二人は、焼けた端から魚を頬張っていった。


「む。うまいのぉ」

「最高です!」


 骨まで食い尽くしそうな勢いで、小虎子が焼きたての魚をどんどんぱくつく。くちくなった腹を押さえ、楊周が改めて釣り人を見遣った。どうにもおかしいのう。そもそも、釣りをする気があるのじゃろうか?


 気になった楊周は、ゆっくり立ち上がるとその男の側に静かに歩み寄った。


「釣れますかの?」


 楊周がそう声を掛けても、男は姿勢を崩さず、問いに答える気配もなかった。


 水面を貫通する糸が作る小さな波紋。それをじっと凝視し続けている。眠っているわけではない。何かを考え込んでいる風でもない。意識は水面の一点に集中されている。例えれば、何かの瞬間をずっと待っているような……。


 首を傾げながら、返答しない男から離れようとした楊周の背後から、低く小さな声が漏れた。


「おぬしは、重玄ちょうげんか?」

「いえ、楊周と申しまする」

「そうか……」


 男の口から、ふふっと小さな嘲笑が漏れた。


「主なき影は、針のない釣り糸のようだな。なんの意味もない」


 男の側に立つ楊周を案じて、そっと小虎子が近付いてきた。楊周が、静かに手を上げてそれを制した。


「わしは待ちくたびれた。そろそろここを発つ。そう、重玄に伝えてくれ」


 どこか安堵した様子で、男が首を垂れた。


 がしゃん! 何かがくずおれる音がした。男の姿はもはや無く、帽子と着衣がくしゃくしゃになって落ちていた。


傀儡くぐつ、か……」


 こわごわ小虎子が寄ってくる。楊周は小虎子に見せるかのように、落ちていた竿を拾い上げた。竿についた糸の先には針が付いていなかった。


「あれえ? 結局、さっきの人は何だったんですかあ?」


 ふう。楊周が、頭を掻いて一つ息をつく。


「あやつは間者よ。ただし、二百年ほど前のな。りゅう重玄は、権謀術数に長けた軍師として名を残したが、わしは嫌いじゃ。傀儡をやたらに使い、こそこそ立ち回ったのが気に入らぬ。それが……こやつのようなものを生む」

「げ!」

「こやつは重玄の命を帯びて、何かを待っていたのじゃろう。待って、待って、待ちわびて。影だけ遺ってしもうた」


 楊周は、きらきらと日射しを跳ね返す美しい川面から目を逸らして、小さく漏らした。


「悲しいのう」


 目を伏せた楊周の横で、小虎子が膨れた腹をさすった。


「げっぷ」



【第八話 釣り人 了】


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