第八話 釣り人
こん!
その音はどこにも留まらず、霧の中に溶けていく。
楊周と小虎子は、昨夜遅くに
「ふう……寒くなってきたの」
楊周が懐手をして、川面を見つめていた時。その男は現れた。
男は懐からするすると竿を出すと、それを振って糸を水面に垂らした。川面の小さな波紋が消えた後は、ひたすらじっと川面を凝視している。何も言わず、ただひたすらに。
「変わった釣り人じゃな」
楊周は
「も、もう我慢できなーい!」
「これ、朝っぱらからやかましいわっ!」
楊周が一喝する。
「ほれ」
起き上がった楊周が小虎子に手渡したのは、投網。
「この川は魚影が濃い。おぬしの腕前がどんなにへぼでも何かは獲れるじゃろう」
「ええー、ご主人さまあ、わたしこんなの使ったことないよう」
「まったく使えぬ
むくれた小虎子を幕から引きずり出した楊周は、幕から十数間川縁を遡り、そこで川面に網を打ってみせた。
ぱしゃっ! 網はきれいな半球状に川面を捉え、引かれた網の中には銀鱗を光らせたはやが何匹も入っていた。
「うわ、すっごーい!」
「感心してる場合か。お前もやれい」
もともと勘のいい小虎子だ。すぐにこつを覚え、二人の足下に魚が山をなした。
楊周が、ふと川下の釣り人に目をやった。
おかしいのお。これだけ魚影の濃い川じゃ。もうかなり釣り上げていてもいいはず。何を狙っておるのじゃろう?
火を
「獲り過ぎたと思うたが、心配はなさそうじゃの」
楊周は微苦笑した。
割いた腹に臭い消しのよもぎを揉んで詰め、塩をまぶして遠火で
「む。うまいのぉ」
「最高です!」
骨まで食い尽くしそうな勢いで、小虎子が焼きたての魚をどんどんぱくつく。くちくなった腹を押さえ、楊周が改めて釣り人を見遣った。どうにもおかしいのう。そもそも、釣りをする気があるのじゃろうか?
気になった楊周は、ゆっくり立ち上がるとその男の側に静かに歩み寄った。
「釣れますかの?」
楊周がそう声を掛けても、男は姿勢を崩さず、問いに答える気配もなかった。
水面を貫通する糸が作る小さな波紋。それをじっと凝視し続けている。眠っているわけではない。何かを考え込んでいる風でもない。意識は水面の一点に集中されている。例えれば、何かの瞬間をずっと待っているような……。
首を傾げながら、返答しない男から離れようとした楊周の背後から、低く小さな声が漏れた。
「おぬしは、
「いえ、楊周と申しまする」
「そうか……」
男の口から、ふふっと小さな嘲笑が漏れた。
「主なき影は、針のない釣り糸のようだな。なんの意味もない」
男の側に立つ楊周を案じて、そっと小虎子が近付いてきた。楊周が、静かに手を上げてそれを制した。
「わしは待ちくたびれた。そろそろここを発つ。そう、重玄に伝えてくれ」
どこか安堵した様子で、男が首を垂れた。
がしゃん! 何かが
「
こわごわ小虎子が寄ってくる。楊周は小虎子に見せるかのように、落ちていた竿を拾い上げた。竿についた糸の先には針が付いていなかった。
「あれえ? 結局、さっきの人は何だったんですかあ?」
ふう。楊周が、頭を掻いて一つ息をつく。
「あやつは間者よ。ただし、二百年ほど前のな。
「げ!」
「こやつは重玄の命を帯びて、何かを待っていたのじゃろう。待って、待って、待ちわびて。影だけ遺ってしもうた」
楊周は、きらきらと日射しを跳ね返す美しい川面から目を逸らして、小さく漏らした。
「悲しいのう」
目を伏せた楊周の横で、小虎子が膨れた腹をさすった。
「げっぷ」
【第八話 釣り人 了】
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