第25話 禍落
「足取りもかなり戻って来た。ここからは一人でも歩ける」
トキイロの町へと続く街道まで出ると、シンクロウが二人の腕を離れた。まだ軽快な足取りとまではいかないが、自分の足で歩けるまでには回復している。涼風特製の丸薬恐るべしだ。
「何から何まで世話になった。お二人のことは決して忘れない」
街道まで出られた。シンクロウとはここでお別れだ。
「シンクロウ様。どうかお体をお大事に」
「サラサ殿もどうかお元気で。運命の巡り合わせがあるなら、また何時かお会いしたいものだ」
「はい。私もいつか再会したいです」
「二人きりは駄目だぞ。その時は私も同席する」
誰もそんなことは言っていないのに、鵺はしっかりと自己主張する。
「もちろんだ鵺殿。貴殿とは機会があれば、いつかゆっくりと話しがしてみた――」
シンクロウの言葉を遮るように、突然街道に激しい轟音と微かな振動が響き渡った。
「地震か?」
「鵺様、シンクロウ様、北の方角から何かが来ます!」
最初にその存在に気付いたのは、魂の色が見えるサラサだった。北の方角から、木々でも隠しきれない程に黒い魂の色を纏った巨体が近づいてくるのを感じた。これ程までに強力で禍々しい気配は初めてだ。この場にいるだけで、真綿で首を絞められているかのような圧迫を感じる。
「……鬼熊だ」
目視出来る距離にまで巨大な影が迫り、土煙を上げながら森の木々をなぎ倒していく。その様を見てシンクロウは確信した。部隊を壊滅に追いやった鬼熊の襲来だ。
「サラサ、シンクロウ。下がっていろ」
鬼熊は真紅眼を持つサラサか、一度取り逃がした獲物であるシンクロウを狙ってきた可能性が高いと鵺は判断したが。
「狙いは私か? むしろ好都合だ」
木々を突き破って街道に飛び出して来た巨大な鬼熊は、サラサやシンクロウには目もくれず、鵺目掛けて一直線に突進してきた。狙いが二人でないなら、庇うことを考えずに迎撃に集中出来る。鵺は迫る鬼熊の頭部に雷を纏った掌底をお見舞いした。
「倒れないだと? まさか
鬼熊は雷の掌底を受け顔を背けたが、突進の威力は衰えず鵺に強烈な体当たりをぶちかました。決して侮っていたわけではない。並の禍津獣ならば一撃で葬り去れるだけの威力は雷の掌底は有している。サラサやシンクロウではなく、真っ先に鵺に襲い掛かったことも普通ではない。本能的に最も鵺が危険な存在だと悟ったから、最初に倒そうとしているのだ。
「上等だ。力比べといこうか」
人の姿をしていても鵺の正体は妖。肉体の強靱さは常人を遥かに上回る。鬼熊の突進に押されながらも体に組み付き、雷撃を流し続ける。
「鵺様!」
「来るなサラサ! 君まで巻き込まれる。こいつは私に任せておけ!」
鬼熊の突進に連れ去られる鵺を追おうとするサラサを鵺が強い言葉でその場に繋ぎ止める。鬼熊の怪力は脅威の一言。流れ弾に当たれば人間など一撃で絶命する。今更ながら、シンクロウはよく五体満足で鬼熊の追撃から逃げ切ったものだ。サラサの身を守るためには鬼熊を遠ざけるのが最善。だからこそ鵺は鬼熊の攻撃から逃れることはせず、あえて受け止めることで距離を取ることを選んだ。彼女を巻き込まないまでに距離を取れば、自分も実力を遺憾なく発揮出来る。
「シンクロウ。ほんの一時、サラサの護衛をお前に託す。絶対に彼女を守り抜け!」
シンクロウにサラサを託す言葉を残し、鬼熊の巨影ごと鵺は河原の方角へと消えていった。
「サラサ殿、俺の側を離れるな」
鵺の残した言葉の意味をシンクロウは直ぐに悟った。鬼熊が突っ込んで来た方角から、数羽の異形の鳥の影が飛来するのが見える。鬼熊の呪力に引き寄せられ、行動をなぞるように陰摩羅鬼が姿を現したのだ。
「シンクロウ様。そのお体では」
「鵺様に大切なサラサ殿の身の安全を託されたのだ。その期待には応えねばなるまい」
シンクロウは大きく深呼吸をすると、右手で腰に帯剣していたサーベルを抜刀した。本調子には程遠いが、禍津獣の中では比較的弱い陰摩羅鬼の相手ぐらいは務まるだろう。鬼熊との攻防でサラサをこの場に残していくという鵺の判断は苦渋の決断だったはずだ。それでも、あれだけ強靱な鬼熊から生還を果たしたシンクロウに懸け、最愛の女性と一時離れる決断を下した。鵺の言葉は重い。シンクロウも命を懸けてそれに応える覚悟だ。
「さあ来い怪鳥ども。手負いとはいえ俺は軍人だ。貴様ら如きに遅れは取らぬぞ!」
一体の陰摩羅鬼が攻撃のために急降下してきた瞬間を狙い、シンクロウは的確にその首をサーベルで落とした。その太刀筋は手負いとはとても思えぬ速度と鋭利さを両立している。負傷している分、長期戦は振り。狙うは短期決戦だ。
※※※
「そろそろ離してもらおうか!」
鬼熊の突進で河原まで押し戻された鵺は、ここまで来ればサラサを巻き込まずに済むと判断し、冷静に攻勢に出た。掌と掌の間に小さな雷を発生させ、鬼熊の眼前で瞬間的に強烈な閃光を浴びせる。肉体的に強靱で雷撃に耐え続けた鬼熊も視界を奪う閃光には耐え切れず、全身の動きが鈍った。その隙に鵺は鬼熊から距離を取った。身に着けていた着流しは突進され木々に打ちつけられてきた衝撃でボロボロだが、鵺の肉体には大きな損傷は見受けられない。
「私の雷撃に何度も耐える狂人な肉体と、僅かな理性を感じさせる思考能力。お前は禍落だな?」
陰摩羅鬼や縊鬼を含め、大半の禍津獣はこの世界のあらゆる負の感情が堆積して生まれた実体を持った災厄だが、極まれに、あまりにも強すぎる負の感情に支配された生き物が、生きながらにして禍津獣に変貌することがある。人間の世界ではこの知識はすでに伝聞されていないが、妖の世界ではこの現象を禍津獣へと落ちる――禍落と呼んでいる。
魂の全てを破壊衝動や復讐心といった負の感情に塗りつぶされ、生きながらに魂を失った虚ろなる存在。一方で負の感情が実体を持つ通常の禍津獣とは異なり、元から実体を持っていた禍落は、肉体的により強靱で攻撃性も高い。
「モリヲマモルタメスベテコロス」
「……驚いた。言葉まで会得しているのか。元はかなりの年月を生きた、英知を持った熊だとお見受けする」
鬼熊はたどたどしくも意味のある言葉を鵺へと投げかけてきた。屈強な肉体と言語を理解する程の知性を併せ持った熊。元は野生の熊だったのが、妖へと進化する一歩手前まで進んだ高位の存在だ。近年森を通す形で街道が敷設され、森を切り開き、周辺に多くの宿場町が完成するに至った。そのために人間たちはたくさんの木を伐採し、多くの森の生き物たちの命を奪った。その現状に、英知を持った大熊が憤怒し、禍落となるまでに魂を蝕まれていったのだろう。そうして英知の熊は、出会った者すべてを殺戮する鬼熊へと変貌を遂げた。妖と共存し、自然を慮ったかつての時代にはこのような現象が起きることは本当に稀だった。鬼熊もまた、現在の黎明ノ国が生んだ被害者といえよう。
「お前の境遇には同情する。大切な森を人間に荒らされては怒りにも狂おう。だが、禍落し、禍津獣と化した今のお前は災厄そのもの。経緯は何であれ、私はお前を滅さなくてはいけない。そうでなければ、お前は確実にサラサを手にかける」
鬼熊は森に立ち行った人間を決して許さない。最も危険と判断した鵺を始末すれば、その牙は確実にサラサとシンクロウへ届く。加えて禍津獣にとって真紅眼は極上の獲物。元がどれほどの知性を持ち、高潔な魂を持った獣であったとしても、一度禍落すればその衝動には決して抗えない。ここでやらなければサラサが危ない。サラサこそが世界の全てである鵺にも譲れないものがある。
「来い鬼熊! 雷の妖鵺が、貴様に引導を渡してくれる」
鵺が全身に雷を纏い、周囲に雷鳴が轟く。それに呼応するかのように、鬼熊も激しい雄叫びを上げる。鵺の掌底と鬼熊の強靱な前足が真正面からぶつかりあい、凄まじい衝撃波が川の水を吹き飛ばし、周囲に霧雨のように降り注いだ。
「これで終いだ」
鵺は全身から雷撃を払い、霧雨の範囲全てを感電させる。その中心にいた鬼熊にこれまでの比ではない、強烈な電撃が直撃する。サラサと距離を取ったのは鬼熊の攻撃に巻き込ませないこと以上に、自分の攻撃に巻き込まないようにする必要があったからだ。
「アヤカシナゼジャマヲスル」
「禍落に至る程の狂気、見誤ったか……」
しかし、それでも鬼熊は倒れない。禍落に至った狂気が濃ければ濃い程にその身には強大な力が宿る。雷撃に傷ついた鬼熊の体は負傷した個所から絶えず黒い瘴気のようなものが発生し傷を補強していく。雷撃と瘴気による破壊と再生を繰り返しながら、鬼熊の巨体は鵺に迫り、その腹部へと剛腕を叩き込んだ。鵺の体もたまらず吹き飛び、川へと着水。霧雨の帯電が止んだ。
「やはりサラサと距離を取ってよかった」
口内に溜まった血液を吐き飛ばし、鵺が上体を起こす。水に濡れて前髪が垂れ、その表情を窺い知ることは出来ないが、重い一撃を受けた直後だというのに、その言葉に怒りや一切の感情の起伏はなく、水面のように静かだった。それが逆に異様だ。
「本来の姿を晒すのは久しぶりだ。驚かせてはいけないから、サラサと旅をしている間は使うつもりは無かったのだがな!」
人の姿はあくまでも仮初。それは鵺という名の妖の本来の姿ではない。鵺が吠えた瞬間、鵺の纏っていた着物がはち切れ、その姿が徐々に人間から、四足歩行の獣のような姿へと変貌を遂げた。
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