第2話 記憶
サラサは幼き日の夢を見ていた。それは、いつも優しい笑顔を浮かべていた母親のキヌエが生涯で唯一、サラサへと鬼の形相を向けたあの日の記憶。
「何をしているの!」
キヌエがサラサが両手に握っていた箸を叩き落とした。加減が利かず、サラサの両手が赤くなる。サラサは食後、キヌエが目を離した隙に突然、箸で自身の両目を刺そうとしたのだ。間一髪のところで間に合ったが、少しでも遅れていたら取返しのつかないことになっていた。
「……この目を見ただけで子供たちは石を投げてくる。この目を見ただけで大人たちは私を化け物だという。私の眼は凶兆だって」
堪らずサラサの感情が大粒の涙となって決壊する。もっと幼い頃は、無邪気さ故に悪意というものに鈍感だった。だけど成長していくにつれて、周囲の自分に対する目が差別的で攻撃的なものであることが理解出来るようになっていった。自分はこれまで何も悪いことをしたことなんてないのに。
黎明ノ国では真紅眼は凶兆の印だと忌み嫌われ、迫害を受けてきた闇の歴史を持つ。サラサも生まれついての真紅眼の持ち主だった。真紅眼は妖にとって特別な存在であり、その周りには妖が寄り付き災厄が多発する。だから真紅眼の持ち主とは関わってはいけない。それが黎明ノ国では暗黙の了解だ。真紅眼を持って生まれてしまった者にとって、黎明ノ国で生きることは過酷を極める。
「この眼のせいで、私は人間扱いされない。お母様にだって迷惑をかけてしまう。だったらこんな眼いっそのこと」
「サラサ、どうかそんな悲しいことを言わないで。私は迷惑だなんて思ったことは一度もない……」
泣きじゃくるサラサをキヌエは優しく抱きしめる。サラサの真紅眼が露見する度に各地を点々とする大変な暮らしではあったが、サラサと一緒にいられるだけでキヌエは幸せだった。サラサを不安にさせないように、サラサの前ではいつも笑顔を絶やさなかった。そうして平穏な生活を守り抜こうとしてきたが、そも限界が訪れたということだ。まだ幼い娘が、自分の眼を潰してしまおうと考えてしまう程に、この世界の悪意は苛烈だ。母親として胸が張り裂けそうだった。
「どうか自分で自分を傷つけるような真似だけは止めておくれ。お母さんとの約束よ。その眼も大切なサラサの一部。サラサの立派な個性なんだから」
無言で頷くサラサの頭を優しく撫で、キヌエは泣き腫らしたサラサの眼をしっかりと見据えた。真紅眼を持つサラサを疎んだことなど一度もない。その眼を含めて、サラサの全てが愛おしい。
「それにね。真紅眼は決して凶兆なんかじゃない。サラサのその眼は、人間と
「妖は人間を襲う恐ろしい怪物なんでしょう? 大人はみんなそう言っているよ」
「そんなことはないわ。妖様は決して邪悪な存在ではない。私達人間の大切な隣人よ。邪悪な怪物は
曾祖母から人間と妖が共存していた時代の話を聞かされ、自身もまた妖に命を救われた経験を持つキヌエは、妖が周囲が言うような恐ろしい怪物でないことを知っているし、真紅眼の持ち主も本来は、人間と妖を結ぶ平和の象徴であったとされる。しかし現在の黎明ノ国には妖を畏怖し、排除しようという思想が巣食っている。そのせいで真紅眼を持つサラサも酷い迫害を受けている。人間の持つ差別意識こそが、禍津獣よりもよっぽど恐ろしい怪物なのだ。
「これからも辛い時はあると思う。だけどいつかきっと、サラサのその眼を恐れることなく、美しいと言ってくれる方がきっと現れるはずよ。だからどうか、希望を捨てないでおくれ。お母さんとの約束――」
キヌエの優しい微笑みが朧気となっていく。サラサの目覚めは近い。
※※※
「ごめんなさい。お母様……」
目を覚ましたサラサの眼から一筋の涙が伝った。キヌエが流行り病で亡くなってからは、サラサはたった一人で過酷な人生を歩んでいた。幼い頃にキヌエがかけてくれた「希望を捨てないでおくれ」という言葉だけが唯一の心の拠り所だった。それなのに、最後の最後でどす黒い感情が湧きたち、キヌエとの約束を破って自分で眼を傷つけてしまいそうになった。母との大切な思い出を汚してしまったようで、弱い自分が許せない。
「目が覚めたようだな、サラサ」
長身の鵺が、布団に横たわるサラサの顔を覗き込んだ。
「あなたは、鵺様?」
「名を覚えていてくれて嬉しいぞ。かなり弱っていたからな。記憶が曖昧なのではと心配していたのだ」
鵺が少年のような屈託のない笑みを浮かべる。圧倒的な力で陰摩羅鬼を蹂躙した迫力との温度差に、サラサは思わず面食らってしまう。温かみのある表情は見ていてとても好感が持てるものだった。自分へ向けられる他人の視線はいつだって、冷ややかで攻撃的なものだったから。
「昨日は気を失ってしまい、お礼も言えていませんでした。助けていただき、本当にありがとうございます」
布団から上体を起こしたサラサが深々と頭を下げた。
「礼には及ばぬ。私があの場を通りがかったということは、サラサはあそこで死ぬ運命ではなかっただけのことだ。それと、あれは昨日のことではなく一昨日のことだ。君は丸一日以上眠っていた」
「そうだったのですね。どうりで寝起きの体が重いと感じたわけです。ですが寝心地は最高でした。柔らかな布団で眠ったのなんていつ以来でしょう」
「過酷な人生を歩んできたのだな」
「……そうですね。心ない言葉だったり、時には暴力だったり。唯一の理解者だった母が亡くなり、天涯孤独の身となってからは尚更です。生きる意味さえ見失いかけていた」
「どうしてあの森に?」
「近くの村で真紅眼であることが知られてしまい、村人に襲われそうになったんです。森まで逃げても猟師が追ってきて……さらに奥深くにある骸ノ森へ逃げ込む以外に道はありませんでした」
生きて出ることは叶わぬ危険地帯である骸の森までは、命惜しさで追跡者も追っては来ない。しかし、陰摩羅鬼の巣窟である骸の森は地獄そのもの。サラサにとっては希望などない絶望の二択だった。
「元々、その日食べる物にも窮する極限状態でしたから、骸ノ森へと逃げ込んでから体力は限界を迎え、あのような状況に……」
「眼を潰せば、何かが変わると思ったのか?」
「……分かりません。ですが、最期を悟った私はきっとあの時、人生を狂わせたこの眼に復讐がしたかったんだと思います。今となっては愚かな行為だったと猛省していますし、それを止めてくださった鵺様にも感謝しております。眠っている間、幼い頃の夢を見たんです。箸で自分の眼を潰そうとした私を、母が凄い剣幕で怒鳴りつけて。『どうか自分で自分を傷つける真似はやめておくれ』と。その約束を私は破りそうになった。そんな自分を恥じております」
「大切なご家族との約束を破らずに済んだのなら何よりだ。私もその美しい瞳を失くすのは惜しいと思ったからな」
「私の瞳は美しいですか?」
「疑いの余地などない。サラサの瞳はこの世で最も美しいぞ」
真っ直ぐな言葉を前に赤面すると同時に、何だか涙がこみ上げてきた。
「……お母様の言った通りでした。いつかきっとその眼を恐れず、美しいと言ってくれる方が現れるはずだと。それは鵺様だったのですね」
「母君がそのように?」
「はい。妖様は恐ろしい存在ではなく、大切な隣人であるとも常々言っておりました」
「良き母君をもったな。私も一度お会いしたかったものだ」
初対面の時も、サラサは突然現れた妖の鵺に驚きながらも、恐怖や敵対心は皆無だった。真紅眼の持ち主であることと、妖に対して偏見を持たぬ母親の言葉があったからこそ、彼女は妖に対しても真っ直ぐに向き合うことが出来る。
「今はゆっくり体を休めるが良い。ここにはサラサを脅かすものなど何も存在しない」
「そういえば、ここは一体どこなのですか?」
見知らぬ家の布団に横たわっていることしか、今のサラサには状況が分からなかった。
「ここは様々な妖が共同生活を送る地。
サラサの肩に触れて再び布団に横たわらせると、鵺が縁側に続く襖を開ける。その先には、豊かな自然に囲まれた美しい里の姿が広がっていた。
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