鵺の寵愛

湖城マコト

第1話 雷光

 黎明れいめいくにの北東部に位置するむくろノ森。そこは高い木々に囲まれ、昼間でも日輪の届かぬ常闇の世界。一度足を踏み入れた者は二度と日の光を拝むことは叶わず、森の中で屍を晒す運命にある。骸ノ森は太古より忌み嫌われてきた死地であった。


「……人間から逃げ延びた先が、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする骸ノ森か。世界はどこまで私に苦境を強いたら気がすむの」


 骸ノ森で、サラサという名の十七歳の少女が倒れていた。その姿はやつれており、身に着ける朱色の紬も至る所が擦り切れてボロボロだった。色白な肌と長い黒髪からも、健康的な艶が失われている。その反面、髪から覗く真紅の瞳はこの世のものとは思えない、神秘的かつ妖艶な輝きを放っていた。この瞳がサラサの人生を狂わせた。そしてまさに今、その人生を終わらせる原因になろうとしている。


 サラサが見上げる遥か頭上の木々から、不気味な無数の目がサラサを見下している。その目の持ち主は既存の獣とも、ましてや人間とも似つかぬ異形の存在であった。巨大な猛禽類もうきんるいの形を取りながら、顔にはくちばしではなく、大きく裂けた口と不揃いの牙、毒蛇を思わせる長い舌を持った怪鳥、陰摩羅鬼おんもらきだ。


 陰摩羅鬼は滅多に人里へと下りてくることはないが、深い山々や森林地帯を進もうとする旅人や猟師が襲撃され、捕食される被害が各地で頻発しており、危険な存在として黎明ノ国の民に畏怖されている。骸ノ森は陰摩羅鬼の巣窟であり、迷い込んだ者は例外なく陰摩羅鬼の餌食となってしまう。それこそが骸ノ森が死地と呼ばれる最たる所以だ。


「……どんどん集まって来る。やっぱり私が引き寄せているんだ」


 目視出来るだけでも、十数匹の陰摩羅鬼がサラサの頭上へと集まっていた。その数はさらに増えていく。本来、人間一人が迷い込んだところで、早い者勝ちとなるだけでこれだけの数が集まることはない。陰摩羅鬼が集結した理由は、真紅瞳を持つサラサが普通の人間とは異なる極上の獲物だからである。


 成人男性並みの体格を持つ陰摩羅鬼が大群で、鋭利な牙で自分の体を咀嚼そしゃくしようとする。その光景を想像しただけでサラサは恐怖に身震いした。しかし体力はもう限界で、この場から一歩も動くことは出来ない。仮に動けたとしても、空を飛ぶ陰摩羅鬼の群れから逃げおおせることは難しい。


「……私が何をしたというの。ただ、人とは目の色が違っただけなのに」


 サラサは最後の力を振り絞って、両手で自身の両目へと触れた。無数の怪物が襲い掛かって来る瞬間なんて見たくない。陰摩羅鬼を引き寄せるこの目さえ無くなってしまえば、興味を失くしてあっさりと殺してくれるかもしれない。そして何よりも、自分の人生を狂わせたこの凶兆の眼を潰すことで、少しでも溜飲が下がるのではないかと、本気でそう考えてしまう。


「こんな目があるからいけないんだ!」


 両目を潰そうとサラサは両手に力を込めた。


「その美しき真紅眼しんくがん。潰すには惜しいぞ」


 低く落ち着きのある男性の声がした瞬間、一帯に眩い閃光が走った。それに驚き、陰摩羅鬼が耳障りな鳴き声を上げながら飛び去って行く。突然の出来事に毒気を抜かれ、サラサの両手が脱力する。一度は潰そうと決心した真紅の瞳に映るのは、片膝をついて目線を合わせる長身の青年の姿であった。


「綺麗……」


 青年はどこから現れたのか。直前に発生した閃光は何だったのか。そんな疑問を忘れて感嘆してしまう程に、青年は美しい容姿をしていた。絹糸のような滑らかな髪を襟首まで伸ばし、双眸は澄んだ翡翠色の輝きを放っていた。上背のある引き締まった肉体で、濃紺の着流しを見事に着こなしていた。そして何よりも印象的だったのは、青年の体を覆うように漂う黄金色の光。黎明ノ国の民の容姿とは異なるが、異国の民の印象とも異なる。青年から醸し出される雰囲気はどこか、人知を超えた神秘性を感じさせた。


「人の世で、その眼が忌み嫌われていることは知っている。そんなやつれた姿でこのような場所に倒れているのだ。相当辛い目にあってきたのだろうな。だからといって、その目を失くすのは惜しいぞ」

「……どなたか存じませんが、私のことは放っておいてください。この眼のせいで、この世界に私の居場所はもうどこにもない。私に未来なんてないんです」

「可哀想に。世界に絶望しているのだな。だが運命も捨てたものではない。こうして私と巡り合ったのだからな」


 再び怪鳥の鳴き声が周囲に木霊す。閃光に驚き逃げていった陰摩羅鬼の群れが再集結を始めたのだ。


「……陰摩羅鬼が戻ってきました。私のせいであなた様まで危険に晒される必要はありません。早く行ってください」

「そうだな。あの五月蠅い鳥どもがいては、ゆっくりと話しをすることも叶わぬ。そこで少し待っていろ」

「何をする気ですか?」

「邪魔者にはご退場頂く」


 長々とお預けをくらっていた陰摩羅鬼の一体が業を煮やし、遥か頭上から二人へと襲い掛かった。サラサは咄嗟に身を丸めたが、青年は心配ご無用と優しくサラサの頭に左手で触れると、右腕を頭上から迫る陰摩羅鬼目掛けて掲げた。


「消えろ」


 冷淡な言の葉と同時に、青年の右腕が帯電し青白く発光。次の瞬間、鋭い雷撃が光の槍のように青年の右手から放たれ、神速で頭上の陰摩羅鬼を貫く。接触と同時に陰摩羅鬼の体は強烈に感電。一瞬で消し炭と化した。


「綺麗な光」


 青年の右腕は今も帯電し青白く輝いている。それを見てサラサは初めて、自分が目を潰そうとした瞬間の閃光の正体を知った。この青年は雷を自在に操ることが出来る。彼は雷の閃光と共に現れたのだ。


 一匹の陰摩羅鬼が倒されたことで、陰摩羅鬼の群れが騒めく。青年との圧倒的な格の違いを理解したからこそ、数の暴力をもって確実に青年を仕留めなくてはと、本能がそう告げている。耳をつんざくような無数な不気味な鳴き声が森中に木霊し、これまでは姿を潜めていた個体をも招集していく。そうして青年の頭上には、当初とは比べ物にならない数百を超える陰摩羅鬼が群がった。ただでさえ常闇に支配されている骸の森の空は、陰摩羅鬼の群によって僅かな光さえも通さなくなった。


「……あんなにたくさん」


 これが本当にこの世の光景なのかと、再びサラサを恐怖が支配する。まるで世界の終わりの日の風景だ。サラサとは対照的に、青年には焦りも恐怖も存在しない。ありきたりな気象現象でも見るかのように平然としている。


「一ヶ所にまとまってくれて結構。駆除する手間が省けるというものだ」


 不敵な笑みを浮かべると、今度は青年の全身が帯電し青白い光を帯びた。次の瞬間、青年の体が大地の枷から解き放たれて浮遊。陰摩羅鬼の群れ目掛けて物凄い勢いで上昇を始めた。サラサの前へとどこからともなく現れた青年。それもそのはず。青年は自由に空を駈けることが出来るのだ。


「まとめて消し飛べ」


 青年と陰摩羅鬼の群れの接触を機に、強烈な稲光と轟音が発生し、群れ全体を飲み込む。激しい閃光と衝撃にサラサは短い悲鳴を上げて顔を背ける。常闇とこやみに包まれていた骸ノ森が、この時だけは周囲のどの地域よりも明るく照らし出されていた。


「陰摩羅鬼を全て」


 稲妻に飲み込まれた陰摩羅鬼の群れは例外なく消し炭と化した。全てがほんの一瞬の出来事。あんなにも煩わしかった陰摩羅鬼の鳴き声が完全に沈黙し、骸ノ森に完全な静寂が訪れる。


「あなた様は一体?」


 陰摩羅鬼を撃破した青年はゆっくりと高度を下げ、何事もなかったように着地する。青年の正体が人間ではなく妖であることを、サラサは一目見て理解していた。だが妖だとしても、この戦闘能力はあまりに常識離れしている。


「そう言えばまだ名乗ってもいなかったな。私の名はぬえだ」

「鵺……様」


 その妖の名をサラサは知らなかったが、悪い存在でないことはだけは肌感覚で理解出来た。陰摩羅鬼の群れを一撃で消し炭にする圧倒的な力と威厳を兼ね備えているのに、サラサに語り掛ける時の声色は、これまで出会ってきたどんな人間よりも優しかったから。こんなにも優しく接してくれたのは、亡くなった母親ぐらいものだ。


「真紅眼の娘よ。君の名は?」

「私はサラサ――」


 名前を言い終えたところで、突然サラサの意識が落ち、駆け寄った鵺がその体を支えた。肉体的にも疲弊し、死の淵で自分の両目を潰そうとするまでに、精神的にも追い詰められていた。陰摩羅鬼の驚異が去って緊張の糸が切れた今、こうなってしまうのも無理はない。


「サラサか。良い名だ」


 鵺はサラサの体を抱き上げると、起こさないように優しくその場から飛び立った。これ以上骸ノ森に長居する理由はない。今のサラサにはゆっくりと体を休めることが出来る寝床が必要だ。


「今はゆっくりと眠れ。私の腕の中は、この世界のどこよりも安全だ」

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