第3話 縷紅

「戻ったぞ。サラサ」


 正午を迎えた頃。サラサが療養する家に鵺が帰って来た。鵺の後ろには、片手にお盆とお椀を乗せた若い女性の姿が見える。白髪を結い上げ、動きやすいように浅葱色の着物をたすき掛けしている。


「お昼ご飯を持って来たよ」


 女性が、梅粥のお椀と匙が乗ったお盆をサラサの側に置いた。


「あなた様は?」

「そういえば、一方的に顔見知りになった気でいたけど、まだ面と向かって挨拶はしていなかったね。あたいは縷紅るこう。彼者誰ノ里に住む鬼さ」


 縷紅は外見こそ人間の女性とそこまで変わらないが、額には鬼の証たる黒い角が光り、笑顔から覗く歯も人間よりも鋭かった。


「縷紅にはサラサの身の回りの世話を任せていたのだ……その、私が君を着替えさせたり、体を拭くというわけにもいかないからな」


 気恥ずかしそうにする鵺の姿がどことなく可愛らしかった。身の回りのことをしてくれたのが鵺だったとしてもサラサは気にならなかったのだが、女性であることに配慮してくれたことは素直に嬉しい。もちろん、鵺と共に世話をしてくれた縷紅に対してもそれは同じだ。


「縷紅様。お世話をかけてしまいましたね。あなた様にも心より感謝を申し上げます」

「困った時はお互い様だよ。それよりもあんたは私が怖くないのかい?」


 意地悪な質問なのは承知の上で、縷紅はそう尋ねずにはいられなかった。鬼には頭に生えた角という分かりやすい特徴があるし、誤った認識により、人間の世界ではあらゆる鬼が人を襲う邪悪な存在と語られることも珍しくはない。真紅眼を持つとはいえ、サラサもまた人の世で生きてきた人間だ。鬼に対する警戒心があっても不思議ではないと縷紅も身構えていた。


「恩人を怖がる理由がどこにありますか?」


 縷紅の不安は杞憂だった。サラサからは鬼に対する恐れも気負いもまるで感じられない。


「いやほら、あたいは鬼だし、見た目もちょっとおっかないだろう?」

「私は決して見た目で相手を判断したりはしません。それがどれだけ相手を傷つけるのか、私は誰よりも知っているつもりです」

「……すまない。今のはあたいの言い方が悪かった。真紅眼を持つあんたの前でこんなことを」

「いいえ。むしろ縷紅様にそのような思いを抱かせてしまった人間の偏見を、一人の人間として申し訳なく思います」


 サラサは真紅眼という特徴を持っていたために酷い迫害を受けてきた。同族から怪物のように扱われる苦痛は想像に耐えない。そんなサラサだからこそ、相手が妖であろうとも決して偏見を持つことはないのだ。自分という存在に偏見を持っていたのは、他ならぬ自分自身だったのと、縷紅は己を省みる。


「言っただろう縷紅。サラサは気持ちの優しい娘だと」

「そうだね。鵺様の仰っていた通りの子だったよ」


 あえて何も言わずに二人のやり取りを静観していた鵺の言葉に、縷紅は深く頷いた。


「あんたのことが気に入ったよサラサ。困ったことがあればいつでもあたいを頼っておくれ」

「ありがとうございます。縷紅様」

「そんなにかしこまる必要はないさ。もっと気さくに縷紅と呼んでおくれよ」

「呼び捨てというのはどうにも言い慣れなくて。せめて、縷紅さんではいけませんか?」

「あたいからしたらまだ堅苦しい感じだけど、こういうのは人それぞれだしね。さんづけで結構だよ」


 縷紅はすっかりサラサのことが気に入ったようで、上体を起こしたサラサの隣に腰掛け、粥の入った茶碗と匙を手に取った。


「食べさせてあげるから、お口を開けな。栄養を取ろうにも急にたくさん食べたらお腹がビックリしちまうからね。先ずは消化に良いお粥からだ」

「一人でも食べられますよ」

「あたいが食べさせてあげたいの。まだ本調子じゃないんだから、大人しくしてな」


 母親が亡くなって以来、優しさとは縁遠い人生を送って来たサラサは厚意を素直に受け取ることに不慣れだったが、快活で世話好きな縷紅の人柄には、そんなサラサとも心の距離を詰められる優しさと勢いがあった。優しさに身を委ねていいのだとサラサも自然と理解し、お粥を食べさせてもらうことにした。


「美味しいです」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。後で髪なんかも整えてあげるからね」


 誰かとこんなにも和気あいあいと過ごすなど、サラサにとっては初めての経験だった。少し戸惑ったけど、決して嫌な感覚ではない。自然と笑顔がこぼれていた。心から笑ったのなんて何年振りだろうか。使い慣れていない顔の筋肉が少し引き攣っていたけど、体は決して笑うという表情を忘れてはいなかった。


「良き笑顔だ」


 初めて見せたサラサの笑顔に、鵺もつられて微笑む。

それと同時に、笑顔がぎこちなくなってしまう程に、彼女は過酷な人生を歩んで来たのかと思うと胸が痛む。せめてこの笑顔が再び失われることがないように、これまで過酷な人生を歩んできた分、これからはサラサに幸せが訪れるよう、鵺は願わずにはいられなかった。

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