第12話 旅立ち
「いよいよ明日ですね。ワクワクして目が冴えてしまいそうです」
「気持ちは分かるが出立は朝早い。今夜はしっかりと眠って体調を整えた方がいいぞ」
旅へ出る前日の夜。寝床に入ってもサラサはソワソワしていた。落ち着かないので、いつも眠るまで障子の外で見守ってくれている鵺に話し相手になってもらっている。
「ワクワクして眠れなくなる日が来るなんて、夢にも思いませんでした。私にとってあまりにも贅沢な悩みです。真紅眼を持つせいで、うっかり眠ってしまったら誰かに襲われてしまうのではないかと、ずっとそんな不安を抱えて生きてきましたから。恐怖ではなく、楽しみで眠れない。こういう感覚もあるのですね」
「サラサ……」
命の危険を感じてゆっくりと睡眠を取ることも叶わない。あまりにも過酷な仕打ちだ。これまで鵺は人間の世界に対して良くも悪くも不干渉を貫いてきたが、人間の世界のサラサに対する仕打ちを思うと、沸々と憎しみを感じ始めている自分がいた。
「だけど、鵺様と出会ってからは毎日ぐっすりと眠れていますよ。鵺様がいつも私を見守ってくれているから、安心して瞼を閉じることが出来る。鵺様、本当にいつもありがとうございます」
「感謝されるようなことはしていない。本来ゆっくりと眠れて普通なのだ」
命の危険に怯えることなく眠ることが出来る。それは贅沢なんかではなく、本来は当たり前でなくてはいけない。
「今日ぐらい。お部屋の中へと入ってきてくださいよ。鵺様が身近にいた方がよりグッスリと眠れそうです」
「しかしな……」
サラサとこの彼者誰ノ里で暮らすようになって一カ月が経つが、鵺はサラサに対してずっと紳士的であった。寝床についた女性と同じ部屋に入る状況など、まったく想定していなかった。もちろん疚しい気持ちなど無いが。
「お願いします」
「分かった」
明日から共に各地を旅して回るのだ。これも絆を深めるためだと考え、鵺は障子を開けてサラサの寝室にお邪魔した。お互いの視線が交わり、気恥ずかしさからちょっとした沈黙が流れる。鵺は流石に布団に近づこうとはせず、やや距離を置いて壁に背中を預けた。
「やはり、顔が見えるというのは良いですね。安心感が違います」
「それは何よりだ。安心したのなら、早く眠った方がいい」
じゃないと自分の方が落ち着かないなんて、恥ずかしくて言葉には出せなかった。
「明日からの婚前旅行。よろしくお願いしますね」
「婚前旅行!」
「何を驚いていらっしゃるんですか? 周りから怪しまれないように婚前旅行という体にしようと仰ったのは鵺様ではありませんか」
「そうだった……私の方こそ疲れているのかもしれないな」
柄にもなく頓狂な声を上げてしまった。決してそういう体で旅をすることを忘れていたわけではないが、いざ想い人のサラサの口から不意打ちで飛び出したその言葉は破壊力が強すぎる。元々そこまで睡眠を必要としない体だが、今夜は確実に眠れなそうだ。サラサに明日は早いぞなどと偉そうに言えた立場ではない。
「サラサ。今回はあくまでもそういう体というだけだが、私はいずれ君と本当に――」
婚前旅行や新婚旅行がしたい。そう言いかけて、鵺は言葉を飲み込んだ。怖気づいたのではない。いつの間にかサラサが寝息を立て始めたからだ。
「安心するとは言っていたが、ここまでとはな」
安心してゆっくり眠ることが出来なかったサラサが、鵺の側なら安心だと、同じ部屋ですやすやと眠り始める。それだけ鵺に心を許してくれているということだ。信頼してもらえていることが鵺は何よりも嬉しかった。
「可愛らしい寝顔だ」
穏やかな表情でサラサの寝顔を拝むと、鵺は静かに襖を開けて部屋の外へと出て行った。
サラサが穏やかな寝顔を浮かべられるようにこれからも彼女に尽くそうと、鵺は献身を強く誓うのだった。
「君の幸せのためならば、私は何でもするぞ」
※※※
サラサが彼者誰ノ里へやってきてから一カ月。サラサと鵺は旅への出立の朝を迎えていた。早暁にも関わらず、村の入り口には彼者誰ノ里のほぼ全ての住人が集まっている。旅といっても数カ月、数年単位の長期ではなく、せいぜい二週間程度の予定だ。終わればまた彼者誰ノ里へと戻って来るのだが、集まった妖たちはまるで、今生の別れかのような神妙な面持ちだ。それだけサラサと共に過ごしたこの一カ月間が充実し、掛け替えのないものだったのだろう。対する鵺に対しては皆、良い意味で淡泊な印象だ。元々ふらりと里に立ち寄る流浪かつ、強すぎて無事な姿しか想像出来ないので、誰も別れを惜しんでいない。鵺に話しかけているのは、ちゃっかりお土産をお願いしている美墨と白眉ぐらいである。
「風邪引くんじゃないよ。お昼にはあたいが持たせたお弁当をたらふく召し上がり」
「ありがとうございます。縷紅さん」
「戻ったら、旅の思い出をたくさん聞かせておくれよ」
サラサは縷紅からお弁当の入った風呂敷を受け取る。他にも里の住人から、旅の助けになればと様々な道具を頂いた。皆、サラサのために何かをしてあげたくて仕方がないのだ。
「数週間か。お前からしたら短い旅になるな」
「どうだろうな。サラサと一緒ならば、一瞬も永遠のように感じられるかもしれない」
「そうだった。お前にとってこれは、サラサとより絆を深めるための旅でもあるのだったな。言うなれば婚前旅行のようなものか」
お土産を求める美墨と白眉をやんわりとあしらった鵺に、石蕗が声をかけた。長年世界中を渡り歩いてきた鵺にとっては小さな旅かと思いきや、大切な人と共に行く旅はこれまで以上に大きな意味を持つ特別な時間だ。相変わらずのベタ惚れっぷりに石蕗は苦笑を浮かべたが、途端に表情を引き締めた。
「真紅眼の持ち主である彼女には、本人の意志とは関係なく災厄が降り掛かることもあるだろう。しっかりと守ってやれよ」
「無論だ。雷の妖の名にかけて、サラサは絶対に守り抜く」
「いい目だ」
鵺の覚悟をしっかりと受け取り、石蕗は健闘を祈るようにその肩に触れた。
「旅に出る者を長く引き留めるのは無粋というものだ。笑顔で二人を見送るぞ」
長として石蕗が手を打ち鳴らすのを合図に、里の入り口の櫓の上に陣取っていた砌が、二人の旅立ちを彩るべく、ほら貝を吹き鳴らした。
「行こうか、サラサ」
「はい」
鵺とサラサはお互いの手を取り合い、一歩前へと踏み出した。
「それでは皆さん、行ってきます!」
大勢の住民に見送られながら、鵺とサラサは彼者誰ノ里を旅立った。親しんだ住民たちとのしばしの別れに、サラサは里が見えなくなるまで手を振り続けた。
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