第17話 またいつでもお泊りに

 ――不思議な夢。自分の体が自分のものじゃないみたい。


 夢心地のような、あるいは熱に浮かされているような、サラサは己の存在さえも不確かな感覚に陥っていた。目の前には太い幹を持つ大木がそびえている。強靱な枝からは一本の括り縄が垂れ下がり、真下には足場として木製の台が置かれていた。


「さあ、こっちへおいで」


 何者かの優し気な声が、サラサを括り縄の方へと誘う。その声に従うのは至極当然のように思えて、サラサは一歩、また一歩と括り縄へと近づいてく。


「いい子だ。さあ、もう一息だよ」


 サラサは台の上に乗り、とうとう括り縄の輪へと手をかけた。これを首にかけ、台を蹴り飛ばせば全てが終わる。サラサは自分が命の危機に瀕していることにまるで気づいていない。これまでの被害者も全員がそうだった。謎の声に導かれ、夢と現の区別もつかぬまま首を括ってしまい、正気を取り戻した瞬間には、首はすでに取り返しのつかぬ程に締め上げられてしまうのだ。


 ――あれ? 私は何をしようとしているの?


 輪に首を通そうとしたサラサの手の動きが止まる。


「サラサ!」


 次の瞬間、雷撃が巨木へと落ち、それと同時に鵺がサラサの体を抱きかかえて救出した轟音と閃光が気つけとなり、サラサの意識が現実へと引き戻された。


「鵺様?」


 鵺の腕の中で、サラサが不思議そうに瞬きを繰り返す。サラサからすれば直前まで夢を見ていたような感覚だ。


「無事で良かった。君にもしものことがあれば私は……」


 安堵というよりも、心底恐怖に怯えるような暗い表情を鵺は浮かべている。後一歩遅ければどうなっていたことか。救えた喜びよりも、サラサを喪っていたかもしれない恐怖の方が遥かに大きかった。


「一体、何が起きているのですか?」

「詳しい話しは後だ……先ずはあいつを滅してやらねば私の気が済まん!」


 鋭利な殺意を宿した言葉を、鵺は雷撃が落ちた巨木へと向ける。

 焼け焦げ、煙の上がる大木が徐々に縮小し、人型に大量の縄が巻き付いたような歪な姿の怪物へと変貌を遂げた。これがこの町で事件を起こしていた禍津獣の正体だ。


「あれは……」

「大木に擬態し、人間を括り縄で縊死させる禍津獣。縊鬼いつきだ」


 縊死した者たちの怨念が集まり禍津獣として具現化した縊鬼は、生者に自分たちと同じ恐怖と苦しみを与えようと、括り縄による縊死いしで生者の命を奪おうとする。標的を見定めると邪悪な呪力によって暗示をかけ、夢現の中で標的を括り縄にまで誘う。そうして暗示は死の淵に解け、被害者は最大級の恐怖と絶望の中で命を落とす。その恐怖の感情を糧に縊鬼はさらに成長を続ける。新婚や婚約、大望を抱く若者ばかりが標的となったのは、幸せを唐突に奪ってこそより大きな恐怖を得ることが出来るからだ。


「私の大切なサラサに手を出した代償は高くつくぞ!」


 鵺が一瞬で縊鬼との間合いを詰め、人間でいう頭部にあたる部分を右手で鷲掴みした。そのまま強烈な雷撃を縊鬼へと流し込んだ。直撃を受け縊鬼の全身から青白い火花と白煙が上がった。


「鵺様危ない!」


 縊鬼が反撃で全身に絡みついた縄を解き、鵺の全身に巻きつけて拘束しようとする。鵺の四方から意志を持った大量の縄が蛇のように襲い掛かる。


「誰が動いていいと言った!」


 鵺は右手だけではなく、体全体を覆うように雷撃を発生させた。大量の縄は鵺の体に直接触れることなく、雷撃によって焼けて炭化していく。


「肉片一つ残さずこの世界から消えろ」


 大量の雷撃を流し込まれ続けた縊鬼の本体も肉体の限界を迎えつつあった。鵺が情け容赦なく駄目押しに一際強烈な雷撃を放つと、縊鬼の体は一片違わず消し炭と化した。


「……鵺様。終わったのですね」

「済まなかったサラサ……」


 縊鬼を倒しても鵺の表情が晴れることはなく、サラサにひたすらと頭を下げた。


「あ、頭を上げてください。鵺様が謝るようなことではありませんよ」


「いや。これは私の責任だ。真紅眼を持つ君が禍津獣に目をつけられる可能性がある。分かっていたはずなのに、私の警戒は十分ではなかった。君を守ると誓ったのに何と情けない。あと一歩遅れていたらと思うと、今も震えが止まらないのだ」


 鵺の体が確かに震えていた。鵺のこんな姿を見るのは初めてだ。大切な人を喪うかもしれない恐怖は、悠久の時を孤高に過ごしてきた妖とて耐えうるものではない。その真の恐ろしさを鵺は初めて知ったのだ。禍津獣と対する際も、あくまでも淡々と作業として撃破する鵺がここまで感情露わに相手を滅するのは珍しい。それはそのままサラサへの思いの裏返しだ。


「大丈夫です。私はここにいますから」


 震える鵺の体を、サラサは優しく抱きしめた。危険な目に遭ったのは事実だが、怪我もなく、こうしてお互いの温もりを感じ合えている。これ以上の幸福はないとサラサは感じていた。


「……サラサが無事で本当に良かった」

「鵺様が助けてくれたおかげです。真紅は運命に愛されているとは本当なのですね。またしても鵺様に救っていただけました」

「君を傷つけようとする者は絶対に許さない。これからも君のことは私が絶対に守るから」


 今度は鵺の方からサラサを強く抱きしめた。体の震えは落ち着きつつあった。


「さっきのは落雷だよな? 雨も降ってないのにどうしてこんな」

「火事になってなければいいが」


 鵺の派手な雷撃が注目を集めないはずがない。徐々に周囲に人が集まり出した。サラサの真紅眼のこともあるし、この場所に長居は出来ない。


「お客様、ご無事で何よりでした」

「女将。どうしてここに」

「あんな風に飛び出して入ったら、気にするなという方が無茶な話しでございましょう」


 群衆とは反対側の人気のない方の路地から蕨野荘の女将が姿を現す。南の大木の場所を訊ねた直後に宿泊者が血相を変えて宿を飛び出していけば、気にならないはずがない。サラサは女将に真紅眼が見られないようにと、慌てて後ろを向いた。


「お嬢さんはこれをどうぞ」


 女将は微笑みながら、宿から持って来た編笠をサラサへと手渡した。


「さあさあ、人が集まって来ない内に宿へと戻りましょう。少し遠回りですが、こちらの路地からなら人目を避けて宿まで戻れます」


 先行する女将に続き、鵺とサラサはその場を後にした。


 ※※※


「女将さんはいつから私が真紅眼だと気づいていたんですか?」


 無事に宿まで戻ると、サラサは編笠を取って女将へと尋ねた。あの場に編笠を持ってきてくれた以上、女将はすでにサラサの真紅眼を把握していたことになる。


「宿にいらした時から何か事情があるのかなとは思っていましたが、脱衣所に浴衣をお持ちした際に一瞬だけお顔が見えて、その時に」

「失礼を承知でお尋ねしますが、私のことを通報しようとか、そんな風には思わなかったんですか?」


 本当は自分でこんなことは言いたくはない。だけど、人間から迫害を受け続けていたサラサはそう問いかけずにはいられなかった。サラサにとってはその扱いが当たり前だったから。


「大変辛い目に遭ってきたのですね。お嬢さんが今まで出会ってきた方々はどうだったか分かりませんが、少なくとも私は相手が真紅眼や妖だからと、悪感情を抱くことはありませんよ。共存の時代の話を知ることももちろんですが、それ以上に私には長年宿場町で宿を営んできた人間としての矜持きょうじがあります。素行を問題に宿泊をお断りすることはあっても、外見や種族の違いでお客様を追い返すような真似は絶対に致しません」

「女将さん……」


 サラサの感情が決壊し、大粒の涙を浮かべると、女将はその体を抱き寄せ優しく包み込んでくれた。


「真紅眼を持つお方には生きづらい世の中でしょう。民の一人としてその現状を嘆かわしく思っています。私にしてあげられることは少ないですが、せめてこの宿に滞在している時ぐらいは周囲の眼に怯えず、安心してお過ごしください。今回に限らず、またいつだってお嬢さんの宿泊をお待ちしていますから」


「……ありがとうございます。人からこんなにも優しいお言葉をかけて頂いたのは初めてで。本当に嬉しくて」


「大きな声を上げることが難しい世の中ではありますが、きっとこの国にはお嬢さんが思っている以上に、真紅眼や妖様を気にかけてくれる人間だっているはずです。どうか世界の全てが敵だとは思わないであげてください」


「はい。女将さんとの出会いが、私の希望になりました」


 人間に対して酷く絶望していたけど、希望を捨てるにはまだ早い。出会いに恵まれていなかっただけで、真紅眼だからと差別をしないでくれる人だって確かに存在しているのだ。思えば、周囲が敵ばかりだったなら、サラサの母キヌエも、真紅眼を持つ幼い娘を育てながら旅を続けることは難しかっただろう。時に理解してくれる人との出会いもあったからこそ、サラサも今日まで命を繋いでこれたに違いない。


「女将、サラサに優しい言葉をかけてくれたこと、私からも礼を言うぞ」


 人間と妖の間には種族の壁がある。同じ人間から言われてこそ、より心に響く言葉もあるだろう。サラサが同族である人間への希望を捨てずに済んだことは、彼女に寄り添う鵺にとっても嬉しかった。


「私は大したことはしておりません。妖様と人間のお嬢さんが共に旅をしている。母から聞かされた話しが現代に蘇ったかのようで、私も心底嬉しく思いました。願わくばこのような光景が当たり前となった時代の再来を望みたいものです。この歳じゃ難しいかしらね?」


「そんなことはない。女将も私からすればまだまだ若人だ」


「あらあら。あなた様のような美男子に言われると年甲斐もなく嬉しくなってしまいますわ。でしたらもう五十年は生きて、時代の移り変わりを見届けねばなりませんね」


「是非そうしてくれ。あなたのような方がいてくれれば、理想もきっと理想ではなくなるだろう」


 世の中はまだまだ捨てたものではない。人間に対する希望を失わずに済んだのは鵺も同じだった。人間側にも女将のような理解出来る人がいてくれれば、石蕗や砌が目指す人間と妖の共存の再開もあながち夢物語ではないのかもしれない。


「町に救う禍津獣を滅してくださったことを、住民を代表して心から感謝を申し上げます。大した発言力もない老女ではございますが、この町で人々の命を奪っていたのは妖様ではなく禍津獣であったと、せめて声高に主張させていただきます」


 深々と頭を下げた女将の感謝に、サラサと鵺も深い礼を持って返した。


「お疲れでしょうし、どうぞこのままお部屋でお休みください。布団を一組増やしておきましたので、鵺様もごゆっくりと」


 一組で良いと言ったあの時のやり取りはやはり不自然だったかと、鵺とサラサはお互いの顔を見合わせて苦笑した。結局、全ては女将のお見通しだったようだ。


 ※※※


「女将さん。お世話になりました」

「またいつでも泊まりにいらしてくださいな。お二人なら大歓迎ですよ」


 翌日の昼。鵺とサラサは宿から旅立ちを迎えていた。大木に擬態していた縊鬼を滅したことで、大木が丸ごと消滅。鵺の放った雷撃を大勢が目撃していたこともあり、町中は朝からちょっとした騒ぎとなっていた。二人の素性を訝しむ者はいないが、念のため早めに町を発つことにした。親交を深めた女将との別れは辛いが、旅とはそういうものだ。いつかまた女将に会いにこようと、サラサは強く誓った。


「今回は婚前旅行とのことでしたから、今度は新婚旅行でも遊びに来てくださいな」

「……それは何とも言えない。そうであれば嬉しいとは思っている」


 恥ずかしそうに言う鵺の隣で、サラサは無言だが満更でも無さそうに微笑んでいた。


「それじゃあ女将さん。行ってきます」

「行ってらっしゃいませ。お二人の旅路に幸運があらんことを」


 笑顔の女将に見送られ、二人は宿場町ウグイスを旅立った。


「そういえば出立でバタバタしていて、すっかりこれを渡すのを忘れていたな」


 町を出てから程なく、鵺が袖に隠していた包み紙をサラサへと手渡した。


「これは?」

「開けてみてくれ」


 言われるがまま包み紙を開けると中身は、昨日露店通りで最初に立ち寄った鼈甲細工の店でサラサが見ていた簪であった。


「どうしてこれを?」

「興味深そうに見ているのに、遠慮したのか欲しいと言わないものだから、私が午前中にこっそりと買って来たのだ。私がサラサに似合うと思い、贈り物として買った。これならば問題あるまい」

「本当に頂いてもよろしいのですか?」

「慎ましさは確かに美徳だが、サラサは度が過ぎる。私にぐらいは我儘を言ってくれて良いのだ」

「ありがとうございます鵺様。本当はこの簪に一目惚れしていたのです。何だか鵺様に似ているような気がして」

「わ、私にか」


 見た目の美しさに惹かれたのかと思ったが、ここで自分の名前が出るのは予想外だった。身に着ける物に、そういった親しみを抱いてくれたのだと思うと素直に嬉しい。


「今は周りに人もおらぬ。笠を脱いで簪を差してみてはくれないか?」

「分かりました。何だかちょっとだけ恥ずかしいですね」


 人目を避けて新しい自分を見せる。何だかいけないことをしているようで、サラサは少しだけ照れ臭かった。簪の扱いには慣れないが元々手先が器用なので、サラサは艶やかな黒髪をまとめ上げて簪で留めた。黒髪に鼈甲独特の飴色の光沢がよく生えている。普段は髪を下ろしているので、サラサの新たな魅力が垣間見えた。


「どうですか?」

「美しい。このまま四六時中その姿を眺めていたいぞ」

「褒めすぎですよ。それでは流石に私の方が疲れます」


 苦笑顔で冗談を返すぐらいには、サラサも鵺からの贈り物を受け入れていた。誰かと共に生きるということにはこういった事もあるのだと、サラサの経験が広がる。


「鵺様からの贈り物のこの簪。私の宝物にしますね」


 満面の笑みを浮かべるサラサを見て、贈り物をして本当に良かったと鵺は思った。

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