第16話 呼び声

「いいお湯でした」


 鵺が客室の窓辺で夕焼けを眺めていると、湯上りのサラサが客室へと戻って来た。その姿に鵺は思わず視線を奪われる。宿の浴衣に着替えたサラサは普段よりも薄着で、湯上りの紅潮した頬とがらすの髪が色っぽい。湯上りの女性とはこんなにも印象が変わるものなのかと、鵺は胸の鼓動が早まるのを感じた。


「鵺様、どうかされましたか?」

「湯上りの君に見惚れていた」

「もう、鵺様ったら」


 思ったことを堂々と言葉にするのが鵺らしい。サラサは恥ずかしそうに、暑くて少しだけ緩めていた浴衣の合わせを深くした。


「外はすっかり夕方ですね。差し込む風が気持ちいいです」

「そ、そうだな」


 サラサも窓辺に座布団を敷いて、鵺の目の前に腰掛けた。湯上りの芳香が鵺の鼻孔に届く。


「鵺様、お風呂でずっと考えていたのですが、この町で起きている事件を、鵺様のお力で解決することは出来ないでしょうか?」


「例の首括りの事件か。私達は町の住民ではなく、偶然立ち寄っただけの旅人に過ぎない。そこまでする義理はあるか?」


「義理はありません。ですが、これからも犠牲者が出るかもしれないと分かっていて、見過ごすことも出来ません。女将さんのように理解がある方ばかりではなく、事件が妖の仕業だと噂されてしまっている現状も胸が痛いです……自分ではどうすることも出来ないので、鵺様にお願いすることしか出来ませんが」


「サラサは優しいな。偶然立ち寄ったばかりの町の住民のことだけではなく、我々妖のことまで気にかけてくれる」


 沈痛な面持ちで俯くサラサの顎を、鵺が優しく持ち上げた。


「サラサの願いとあらば、喜んでそれを叶えよう。いや、これは願いにも入らないな。私とて禍津獣の蛮行ばんこうが妖の仕業と誤認されるのは不本意だ。微々たるものだが、事件を解決すれば石蕗や砌の理想の手助けにもなろう」


 サラサが自ら何かをお願いしようとするのはこれが初めてだった。本音を言えばもっと自分本位な願いごとをもっとたくさんしてもらい、全てを叶えてあげたいぐらいなのだが、最初の願いが自分以外の誰かを思ってのことなのが優しいサラサらしい。


「ありがとうございます。鵺様」


 普段よりも近い距離で拝むサラサの笑顔が鵺の心を射抜く。このまま少し顔を近づけるだけで、唇と唇は呆気なく触れてしまうだろう。サラサもこの距離感でも怯えることなく、心を許してくれている。触れてもいいのか? 鵺は心の中で葛藤する。


「サラサ、私は――」

「お夕飯をお待ちしましたよ」


 夕飯を運んできた女将の出現によって、鵺は甘酸っぱい葛藤から一気に現実に引き戻された。サラサも湯上りの火照りが冷めたことで鵺との距離感が急に気恥ずかしくなり、異なる赤みが顔を支配する。お互いに飛び退くように背を向け合った。


「入ってくれ」

「あらあら、もしかしてお取込み中でしたか?」


 食事の配膳をしながら、女将は二人の様子がどうにもぎこちないのを感じ取っていた。流石は年の功といったところである。


「いや、何でもない。食事をどうもありがとう」

「主人が腕によりをかけて作りました。どうぞお召し上がりください。それでは、後はお若い二人でごゆっくり」


 女将の背中を見送りながら、最後の一言は余計だと思う鵺なのだった。


「温かいうちに頂こうか」

「そうですね」


 思えばスリ騒ぎや葬列の一件で、外では何も食べれていなかった。空腹には誰も勝てない。直前の気まずさも忘れ、二人は宿自慢の夕飯を心行くまで堪能したのであった。


 ※※※


「こんな平和そうな町にも禍津獣が潜んでいるなんて」


 夕食後。サラサは団扇うちわで自分を仰ぎながら一人考えていた。鵺は入浴のために席を外している。サラサの記憶している限り、禍津獣の被害が町にまで及んだという話は聞いたことがない。近年は以前と比べ、魂の色がくすんでしまった人を見かける機会も随分と増えた。一説には黎明ノ国が妖の危険性を流布し、それが恐怖心となって伝播しているとも言われている。そうして人々の負の感情が高まり、悪意を向けられた妖側もまた負の感情が高まる。そういった負の連鎖が、サラサの眼にする世界にも如実に表れているのだ。その結果、これまでは安全なはずだった町中にまで禍津獣の驚異が及んでいるのなら、事態はいよいよ深刻だ。


『キミハシンクガンヲモッテイルンダネ』

「誰?」


 不気味な背筋に冷え、サラサは思わず振り向いた。今この部屋には誰もいないはずなのに。


「気のせいかな……」


 日中に妙なものを見てしまって、神経質になっているかもしれない。サラサは溜息をつきながら、視線を前に戻した。


『ツカマエタ』

「なに……これ?」


 いつの間にか、サラサの右腕に実体のない黒い括り縄のような物が巻き付いていた。サラサは直感的に悟った。これは葬列で目撃したのと同じ縄だ。

 実体のない縄は窓枠や周囲の建物を貫通し、一直線にサラサを拘束している。縄は南の方角から伸びてきているようだ。


『コレハユメダ。メザメタトキヲタノシミニ』

「……夢? ああ、だからこんなにも……眠く……」


 怪しげな声に導かれるように、サラサの瞼が徐々に重くなっていく。


『コッチヘオイデ』


 意識が朦朧とする中、サラサは縄へと引き寄せられ、外履きを履かぬまま自分で窓枠を乗り越える。サラサの後ろ姿はそのまま、夜の闇へと消えていった。


 ※※※


「こうしてゆっくりと風呂に浸かるのも、サラサと旅をしているからこそか」


 鵺は極楽気分でゆったりと肩まで湯船に浸かっていた。一人で自由気ままに旅をしていた頃は、自分一人だからとあまり身だしなみにも気を遣わず、平気で何日も野宿を繰り返していたが、サラサと旅をするようになってからは清潔感というものにも気をつけるように心がけていた。彼者誰ノ里を発つまでの一カ月間、鵺も縷紅ら里の女性陣に、年頃の女性と旅をする上で心がけることをみっちりと叩き込まれてきた。清潔感もその一環で、利用出来る時はなるべくこうして風呂を利用するようにしている。


「サラサはもう眠ってしまっただろうか」


 移動ばかりで、ゆっくりと出来る寝床は久しぶりだし、昼間は昼間で禍津獣の残滓を見て驚きもした。食事をしている時から眠そうだったし、今頃は布団で寝息を立てているかもしれない。


「可愛らしい寝顔なのだろうな」


 寝顔を拝めることは、ある意味で彼女を見守る者の特権なのかもしれない。入浴を終えて浴衣姿に着替えた鵺は、サラサを起こさないように足音に注意しながら客室へと戻った。


「サラサ?」


 寝息どころか、物音一つ聞こえないのが気になり、鵺は思わず名前を呼びながら襖を開けた。すると布団は敷いてあるのに、サラサの姿はどこにも無かった。網笠は置かれたままで、灯の蝋燭にも火は灯されていない。


「女将、サラサを見ていないか?」


 一階に駈け下り、鵺は女将に所在を訊ねる。かわやか水の一杯でも飲みに下りただけなら良いが。


「いえ、見ておりませんが。お部屋におられないのですか?」


 サラサが鵺に何も告げず、それも真紅眼を隠すための網笠を置いたまま出歩くなどあり得ない。最悪の可能性が頭を過る。


「女将。首括りが頻発しているという、南の大木の場所を教えてくれ」

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