第23話 シンクロウ

「川がある。少し休憩しようか」

「そうですね。今日はかなり気温もあって暑いですし」


 トキイロの町を発ってからしばらくして、河原を発見した鵺とサラサは、一時的に休息をとることにした。森には熊の怪物が現れるというが、幸いにも今のところはそういった騒ぎには出くわしていない。


「川の水で汗の始末をしてきてもよろしいでしょうか。べたべたで気持ち悪くて」


 トキイロの町で宿をとる予定だったので、今日はすでに予定以上の距離を移動している。サラサは足腰が強いので疲労はそこまででもないのだが、気温が高いこともあって汗の不快感だけはどうしようもない。濡らした手ぬぐいで素肌を拭いて、少しでも清涼感を得たいところだった。


「あ、ああ。私は背を向けているよ」

「それではお言葉に甘えて」


 鵺が背を向けると、サラサから衣擦れの音が聞こえて来た。一瞬ドキっとした鵺は、川を流れる清流の音に意識を集中させて邪念を払う。


「鵺様、大変です!」

「ど、どうしたサラサ」


 突然上がった声に鵺が振り返ると、紬の上が開けたサラサの背中が川へと分け入っていくのが見えた。美しい背中を目の当たりにしたことで顔が熱くなり、慌てて目を逸らしそうになったが、サラサが向かう先にある岩場を見たことで事情を察し、すぐさま真剣な面差しとなった。


「岩場に人が引っ掛かっています」


 サラサは自分の姿も省みずに、岩場に倒れる男性らしき人影へと近づき安否を確かめた。黒髪短髪で顔立ちにはまだ幼さが残り、年齢は十代後半ぐらいかと思われた。軍属のようで、詰襟の軍服には、黎明ノ国の印が刺繍されている。軍服は至るところが擦り切れ本人も負傷しているようだが、幸いにも命に係わるような大きな傷は負っていないようだった。しっかりと括りつけていたようで、腰には装備のサーベルがしっかりと帯剣されている。


「しっかりしてください! 死んではいけません!」


 サラサが必死に男性に呼び掛けると、男性の眉がピクリと動き、薄らと両目の瞼を開けた。


「……ここは」

「無事で良かった」

「君は……」


 薄ぼんやりとした視界が、自分を抱きかかえる少女の姿を捉える。まるで知らない相手なのに、無事で良かったと、泣きそうな顔でまるで身内のようにそう呼び掛けてくれている。そしてその瞳は、美しい真紅の輝を放っていた。


「美しい瞳をしている……」

「えっと……これは……」


 着物が開けたままなのも省みずに川に飛び込んだサラサが、顔を隠すための編笠を被っているはずもない。真紅眼のことが王国軍の兵士に露見してしまった。今となってハッとするが、だからといって見過ごすなんて選択肢はあり得なかった。


「だ、大丈夫ですか?」


 兵士の瞼が閉じられた。再び気を失ったようだ。


「王国軍の兵士。例の怪物退治の負傷者だろうか」


 鵺が岩場のサラサと兵士に合流した。


「サラサ。そろそろ前を閉じてはくれないか。目のやり場に困る……」


 変わらずサラサの着物の前が開け、川を渡ったことで体にびっちりと張り付いている。なるべく視界に入れないようにと、鵺は明後日の方角を見ながら、サラサから兵士の体を引き受けた。


「お、お見苦しいものをお見せしました。倒れている方を見かけたらもう無我夢中で。どうか今見たものは、記憶から消してください」


 川が沸騰するのではと錯覚させる程に、サラサは耳まで赤くしながら慌てて着物の前を閉じた。思えば兵士が一瞬意識を取り戻した時も完全に上半身を見られていただろうが、素肌よりも真紅眼が露わになっていたことの方がサラサにとっては遥かに問題であり、その時は気にも留めていなかった。今になって急に羞恥心が蘇る。


「あのような美しい姿を記憶から消せるはずがないだろう」

「もう、鵺様ったら!」

「おぶっ! いや、そういう意味ではなくてな」


 言った側から真理を悟ったような表情で断言した鵺の顔面に、サラサは赤面しながら川の水を浴びせかけた。今のは流石に言葉足らずだったと、鵺が慌てて弁明する。


「君は開けた着物や真紅眼を意にも返さず、この者の身を案じて迷わず川へと飛び込んでいった。その勇敢で美しい姿に感動を覚えたのだ。君は本当に心優しい人だ」

「……もう、鵺様ったら」


 鵺の言葉にサラサも頭が冷え、今度は気恥ずかしそうにはにかんだ。鵺がそういう風に捉えていてくれるのなら、むしろ光栄なことだった。


「……その、君の肌がチラチラと視界に入ってしまったのも事実だが、こちらはなるべく思いださないように努めるよ」

「言わなければ分からないのですから、そこまで正直に仰らなくても結構ですよ。もう忘れろなんて言いませんから」


 鵺が川を渡り切ったのを確認してから、サラサは一度足を止めた。


「……いつかはきっと、鵺様に全てをさらけ出す日もくるはずですから」


 清流に掻き消されるような細い声で、サラサは囁いた。


「今何か言ったか?」

「いいえ何も。鳥のさえずりか何かではありませんか?」


 今はまだ本人に断言するほど大胆にはなれない。だけどいつかきっと。鵺がサラサに恋心を抱くように、サラサも確実に鵺に惹かれつつあった。


「この者の介抱もそうだし、サラサもずぶ濡れだ。一度火を起こした方が良いな」


 そう言って、鵺は河原でテキパキと火起こしの用意を進めた。薪さえ集まれば雷の力で着火が出来るので、鵺の火起こしは非常に手際が良い。


 ※※※


「……ここはいったい?」


 気絶していた兵士が再び意識を取り戻した。戦いでの負傷や川の流れに揉まれた打ち身の主張が激しく、険しい表情で上体を起こす。


「ようやく目を覚まされましたね。怪我をしているようですし、あまりご無理はなさらないように」


 気絶している間、ずっと側で看病をしていたサラサが微笑んだ。網笠は被らずに真紅眼の姿をさらしている。


「君は川で俺に呼び掛けてくれた人だな。その瞳をよく覚えているよ」


 鮮烈な印象故に、意識が朦朧もうろうとしながらも兵士はサラサの瞳を覚えていたようだ。顔を見られたのは一瞬だったし、編笠を被って応対することも出来たが、サラサはそうはしなかった。この兵士のことは信用出来る気がしていたから。


「おっしゃる通り、私は真紅眼の持ち主です。驚かせてしまいましたよね」

「驚きよりも感嘆が先に来た。君の瞳は本当に美しい」

「私の瞳は美しいですか?」

「ああ、俺の知る誰よりもな」


 青年の魂は一切の混じりけのない、真紅色の輝を放っていた。彼には真紅眼への偏見や敵意といった悪意が存在していないのだ。それ故に、言葉も額面通りに受け取ることが出来る。初対面でその瞳を美しいと言ってくれたのは、鵺に続いて二人目だ。


「君の名前は?」

「サラサと申します。あなた様は?」

「俺の名前はシンクロウ。王国軍の所属だ」

「シンクロウ。色の真紅ですか?」


 真紅眼を見ても敵意を持たなかったことといい。魂の色が混じりけの真紅色だったこといい。その名前にはサラサも驚きを禁じ得なかった。そして何よりも。


「そうだ。真紅眼を持つ君に言うまでもないだろうが、我が黎明ノ国では真紅は不吉な色とされてる。そのような名前を生まれ持った俺に対する周囲の視線は冷淡なものだったよ」


 真紅眼を忌み嫌うようになって以来、黎明ノ国では真紅の色そのものを忌避する悪しき風習が蔓延っている。名前に真紅を持つことは、それだけでも随分と生きづらい時代といえる。そしてシンクロウの親はそれを承知の上で子にその名を与えたことになる。


「真紅眼を持つ君の受けて来た仕打ちに比べたら、俺の生まれ育った環境はぬるま湯だろう。それでも、俺もまた真紅という言葉に苦しめられてきた人間の一人だ。それ故に俺は真紅眼に対する偏見も持っていない。誰かを差別し蔑むことがどれだけ愚かしいことかは理解しているつもりだ」


「真紅眼を持つ私だからこそ、シンクロウ様のお言葉が嘘偽りないものだと信じられます」


 今この言葉を口にしている瞬間にも、シンクロウの魂の色は揺るがない。だからこそサラサもその言葉を安心して聞いていられた。彼は信用出来る人間だ。


「お取込み中悪いが、私のことを忘れてはいないか?」


 サラサとシンクロウの二人の世界に耐え切れず、鵺がわざとらしく咳払いをする。すっかりサラサに見入っていたシンクロウは、この時初めて鵺の存在を認識した。


「あなたは?」

「私は鵺。サラサと共に旅をしている者だ」

「シンクロウ様を発見したのは私ですが、川から引き揚げ、火を起こしてくださったのは鵺様ですよ」

「気づかずとはいえ、これはとんだご無礼を。鵺殿とサラサ殿は僕の命の恩人だ。心より感謝を申し上げ――痛っ!」


 シンクロウが深々と礼をしようとしたが、腹部の負傷が痛むようで表情をしかめた。


「怪我が悪化したら元も子もない。少し横になっていろ」

「かたじけない」


 お言葉に甘え、シンクロウは再び横になることになった。


「ところでシンクロウだったか。その、サラサに抱えられた時のことは覚えているのか?」

「ああ。美しい瞳の女性だなと」

「それ以外には?」

「もう、鵺様ったら」


 鵺が何を考えているのかを察し、サラサは横目で冷ややかな視線を送った。


「それ以外? 意識が朦朧としていたし、ぼんやりと顔と瞳が印象に残ったぐらいで。ひょっとして俺は何か粗相でも?」

「いや、見ていないならそれでいいんだ」


 安心した様子でシンクロウから視線を逸らすと、鵺はボソリと呟いた。


「……サラサの裸を覚えていたら、雷撃で記憶を消してやるところだった」

「何を物騒なことを言っているんですか。怪我が悪化した元も子もないと言ったばかりでしょう」


 呟きを拾ったサラサが苦笑交じりに鵺の肩に触れる。緊急事態だったし、もしシンクロウが覚えていたとしてもサラサは気にしなかったのだが、鵺なら本気でやりかねないので、シンクロウが覚えてなくて幸いだった。幸いといえばシンクロウが真紅眼に対して差別意識を持っていなかったこともだ。もしもシンクロウが一般的な王国軍の兵士のように敵意を剥き出しにしてきたなら、荒事に発展していた可能性も十分に考えられる。

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