五章④
「なんだと?」
《まだ、終わっていないのです。夜花、お前はなにか気づかないのです?》
「え」
頭上の壱号に問われ、夜花は目を瞬かせる。
(なにかって……)
なんだろう。部屋の空気が清浄になったのには気づけた。だが、それ以外になんて――。
「うーん。特になにも」
《バカなのです》
「ちょ、シンプルに暴言なんですけど……」
《集中して、周りの空気を感じるのです。今のお前なら気づけるはずなのです》
そもそも、数日前まで素人だった夜花だ。まれびとになり、見鬼を得たからといって急に怪異の気配を感じとれるようになるわけがない……と、思う。
(でも一応)
壱号がそこまで言うなら、やるだけやってみようか。夜花は渋々目を閉じ、神経を研ぎ澄ましてみる。
「あっ」
驚いた。
確かに、清らかな空気の中になにかが引っかかる感覚がある。本当にささやかな違和感で、言われなければ察知できないほどの。
糸どころか、ほんの繊維の一本ほどのかすかな引っかかりを、夜花は慎重にたどる。
途中で何度も見失いそうになりながら、たどり着いた違和感の先には――ぴったりと閉ざされた押し入れがあった。
「あの押し入れ」
夜花は押し入れを指さし、マサを見遣る。それまでぽかんとしていた彼は驚きからか、身体を揺らした。
「あの中に、なにが入っているんですか?」
「な、なにって……荷物とか、服とか」
「開けるぞ」
マサの反応を見て、問答無用と判断したらしい果涯が、返事を待たずに押し入れを開ける。
「おい、勝手に……!」
マサが待ったをかけるも、もう遅い。
押し入れの中は確かに、段ボール箱や衣装ケースなどの荷物が積まれ、他にも書籍、紙袋に乱雑に詰め込まれた雑貨、冬用の毛布などがおさまっていた。
「ちっ……てめえ、こんなもの隠してやがって、どういうつもりだ」
舌打ちとともに、果涯がずっしりとなにかが詰まった白いビニール袋を取り上げる。その拍子に、袋の中から硬いものが擦れる、鈍い音がした。
「うわ、それ」
夜花にもわかる。ビニール袋から、黒くもやもやとした――おそらく邪気、もしくは怨念などと呼ばれるような、まがまがしいオーラが放たれていた。夜花の感じていた引っかかりの源は、間違いなくそのビニール袋だ。
果涯が袋を突きつけると、マサは気まずそうに目を逸らす。
「……あ、あとで、す、捨てようと」
「バカか。こんなもん持ってたら霊障があって当たり前、俺の仕事も無駄になるじゃねえか!」
夜花は果涯に近づいて、ビニール袋の中を覗き込んだ。
入っていたのは、見事にがらくたばかり。焦げた小さな木片に、食器や植木鉢のような陶器類の汚れた欠片のようなもの。おそらく、あの廃村にあったものだ。
だが、それを目にした途端、夜花は驚いて仰け反った。
まず悲鳴のような、呻きのような、大勢の人の声が聞こえてくる。次いで、火の熱さを肌に感じ、全身が火照り始めた。
(なにこれ……!)
悲鳴を聞くまいと、夜花は咄嗟に耳を塞ぎ、目を瞑ってその場に蹲る。
初めての感覚だった。他人の記憶の断片、何倍かに希釈したがごとき、薄膜に隔たれた五感の情報が奔流となって流れ込んでくる。こめかみに痛みが走り、平衡感覚を失いかけ、とてもではないが立っていられない。
ひとつひとつの情報は軽くても、数が多くて圧倒される。このままでは酔ってしまいそうだ。
「どうした?」
「なにか、感じるのっ。大勢の人の声とか、熱さとか」
果涯に訊ねられ、夜花は必死に答えるものの、流れ込んでくる五感の情報と自分の五感の情報が混ざり合って上手く処理できない。
「感じる……?」
《おそらく、
訝しげに半眼になった果涯に、壱号が冷静に返す。
「は? なんだってそんな……くそっ」
果涯は目を丸くし、口にしかけた疑問を引っ込める。そして、苛立った様子でビニール袋を宙にかざした。
「とにかく、こいつを浄化すりゃ全部終わる。よかったな、俺に憑いてるやつの得意分野で」
刹那、袋は鮮やかな赤い炎に包まれた。邪なものは感じられない。清浄な炎だ。けれど。
「だめ!」
夜花は無我夢中で果涯の手から袋を奪い取り、燃やされるのを阻止する。
「おい! てめえ、なにすんだ」
「これは燃やしてはだめです!」
「あのな、見習いは知らねえかもしれねえけど、火ってのは邪気を祓い、浄化に適してんだよ。いいからわたせ。俺の炎ならすぐ終わる」
違う。果涯は根本的なことがわかっていない。
彼らは苦しんでいる。火に、苦しんでいる。たとえ、清らかな炎だったとしても、彼らは焼かれることを望まない。
夜花は自分でもわけがわからないうちに、衝動に突き動かされていた。
「壱号さん、浄化って別の方法でできないのかな」
《『門』を開いて、異界に還せばいいのです。『門』の形を保つための媒介と、お前の霊力があれば可能なのです》
頭上から夜花の手のひらの上にぴょこんと降りてきた壱号の言葉を聞き、夜花は己のスマートフォンを取り出した。
正しくは、そこについている鳥居のストラップを。
「『門』ってこれのこと?」
《然り、なのです》
いざというとき、必ず持ち歩くものといえばスマートフォン。そこにつけておけば、千歳に持ち歩けと言われたその朱色の鳥居のストラップをどこかに忘れてくることもない。
それがいきなり役に立とうとは。
夜花は袋の中身をすべて床に出し、そのがらくたの山の横に鳥居を置く。隣で果涯がなにやらつぶやいているのが聞こえたが、かまってはいられない。
「壱号さん、お願い」
《――我が主に願いたてまつる。月明かりの導きをもって、異境への道を繋ぐのです!》
壱号の簡潔な奏上により、鳥居が大きくなったように見え、ぼんやりと光を放ち始める。
《皆、異境に還るのです》
刹那、空気が大きく揺らぐ感覚があった。がらくたから勢いよく思念の奔流がほとばしる。黒く染まった念は一匹の黒い蛇のようになって、宙で渦巻いたかと思えば、大きくうねりながら鳥居の中にどっと吸い込まれていく。
それとともに、夜花の心――いや、魂だろうか。気持ちが門へと惹かれていく。
魂が肉体から離れ、ふわりと浮き上がり、思念のうねりと一緒に鳥居の向こうへと引っ張られた。
(すごい。魂だけってこんな感じなんだ。こんなに、身軽なんだ)
鳥居の向こうに見えるぼんやりとした光はどこか懐かしく、温かく、そこへ行きたいと本能が訴えてくる。
夜花は目を閉じた。
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