二章⑤

 ――視えた。視えてしまった。

 夜花の背後、わずか二十歩ほど先に揺らめく霊は、人の形はしていた。かろうじて。だが、明らかに生者ではない。首が異様に長く、腕の長さが左右で違う。二本の足はぐちゃぐちゃと絡み合うようにして、輪郭すらつかめない。ぎょろりとした剥き出しの目玉が、こちらを見ていた。

「ひ……っ」

 悲鳴さえろくに出せず、夜花は一歩だけ後退る。

 臓腑が冷えて縮み、震えあがって動けなくなるほどの恐怖というものを、初めて味わった。喉が詰まって、声を出すどころか呼吸すらできているか怪しい。


《囲まれているのです》

 夜花は愕然とした。後ろにひとり、左右にひとりずつ、そして正面にも。

 次々に浄化されていく白っぽい人影の霊とは異なり、千歳の祝詞が効いているように見えない。じりじりと、こちらに迫っているようだった。

《守りを固めるのです。弐号!》

 壱号が叫ぶ。するとどうだろう。壱号とほとんど同じ姿をした真っ白なゆきうさがもう一匹、ぽすん、と千歳の頭上から現れた。


《壱号、状況はどうなってるのです?》

《劣勢なのです。小童が弱いせいなのです!》

 夜花は千歳の表情をうかがう。祝詞を上げる彼は正面から霊たちを見据え、少しもぶれることなく口を動かし続ける。だがやはり、かすかに焦燥が滲んでいる気がした。

 生唾を呑みこむ。

 こんなに緊迫した場面に臨むのは、十六年生きてきて初めてだ。手足が震えて、己のものでないかのごとく固まってしまっている。まるで全身に氷水を浴びせられたよう。


 ――けれど。

 だからこそ……今ここで奮い立たねば一生、腑抜けのままだろう。それでいいのか、自分。本当に、そのままで。

 千歳と背中合わせに立つ。夜花は彼の小さな背中を守り、庇うため、両手を広げた。

《お前……》

 壱号が驚いている。あれだけトンネルに近づきたくないと泣き言を漏らしていた夜花がこんな行動に出るとは、思いもしなかったに違いない。


「絶対、触れさせないから!」

 霊に向かい、夜花は啖呵を切る。

 それは啖呵でもあり、己に言い聞かせる決意表明でもあった。膝は笑っているし、涙も少し出ているし、声も裏返った。

 気味が悪い。怖い。逃げたい。

 でも、夜花は変わりたかった。

 ずっと変われずにいて、ついにはあんなよくわからない神みたいななにかにすがり、願い。そこまでして結局、変われなかった。出来損ないのままで、特別ななにかになれずに。

 だとするなら。

(神頼みでもダメなら、ここで自分から踏み出さなきゃ。勇気を出せ、私。せっかく見鬼を得ることができたんだから、この一歩から変わるんだ)


 頭頂部を、もふん、と壱号の前脚で一度、叩かれる。

《その意気や良しなのです。――月白の盾!》

 壱号が唱えると、白く丸い光る壁が現れて霊の進行を遮った。弐号も同じく唱え、千歳の正面に壁を作る。

《祝詞が終わるまでもう少しの辛抱なのです》

 夜花はうなずき、息を止めて霊が接近しないかじっと見つめる。

 ようやく祝詞が終わるらしく、だんだんと千歳の声が伸びやかになっていく。それでも多少は効いているようで、形を持った霊たちも最初より輪郭が崩れていた。

 祝詞が終わるのとほぼ同時。

 ぱん、とガラスが割れるような音がして、壱号と弐号の作った壁の破片が散る。


《そんな、まだもつはずなのです!》

《おかしいのです! 異常なのです!》

 壁がなくなり、最後のあがきなのか、霊たちがこれまでよりも素早い動きでこちらに迫る。

「壱号! 月光の剣を!」

 千歳が叫ぶ。

《もう出しているのです!》

 しかし、もう霊の腕が届く。夜花は、あれに触れたらいけないと本能で理解する。

 白く光る鋭い剣が千歳の手にわたり、彼がそれを振って霊たちを一掃することさえできれば全員が助かるだろう。だが、あと数瞬だけ、時間が足りない。時間が足りないから、夜花たちにはあの霊に触れられ、憑かれ、命を落とすか、正気を失うかの未来が待っている。


 ああ、ほんの――あと数秒があれば。

 夜花は無我夢中で喉が勝手に動くままに、それを口にしていた。


「止まって」

 さらに大きく息を吸い込む。


「止まってよ!」

 止まれといって止まるなら苦労はしないし、それほど間抜けなこともない。ないはず、なのに。


(え?)

 夜花が叫んだ瞬間、ぴたり、と霊たちがいっせいに静止したように見えた。それこそ、ほんの数秒。

 三秒だか四秒だかははっきりしない。けれど、霊たちは動きを止め、その隙に千歳の手に光の剣が握られて振るわれた。祝詞で祓えなかった霊たちは剣に両断され、霧散する。


 間に合わないはずだったのに、なぜか間に合った。

(なんで?)

 ふう、と息をついて千歳が手から離すと、輝く剣は光の粒になって消える。

 霊は白いのも形あるのも含め、もうひとりも残っていない。

(なんなの、今の。気のせい?)

 確かに霊が止まったと思ったが、気のせいとも気のせいでないともつかない微妙なごく短時間。そのせいか、誰もなにも指摘しない。 千歳も特に気にした様子はなく、ゆきうさたちも、ふす、と満足げに鼻を鳴らすばかりだ。

 夜花もその空気感に「さっきのはなに?」とは言い出せない。プロが言及しないのだから、きっとおかしなことではないのだと無理やり呑みこんだ。


「夜花、庇ってくれてありがとうな」

 首を捻る夜花に、千歳が寄ってきてはにかみ交じりに言う。

「私はなにもできてないよ」

「でも心強かった。あんた、肝が据わってるよ」

 よくわからないが、褒められた。単純だけれど、夜花の心はそれだけで少し浮上する。

 千歳はふっと目元を和めて身を翻した。


「よし。任務完了だな」

《ガキが弱くなかったら一分もかからずに終わっていたのです》

《然りなのです。弱っちいのです》

「悪かったな」

 千歳はすねたように口をへの字にして、自分の肩に乗っている弐号と夜花の頭上にいる壱号とをつまみ上げると、二匹それぞれの額にデコピンをした。

《痛いのです! 生意気なガキなのです!》

《許せないのです! あるじに言いつけるのです!》

 ぎゃんぎゃんと頭に響く、ゆきうさたちの猛抗議。それをそっくり無視した千歳は振り向いて夜花を見、いたずらっぽく、に、と笑う。


「帰るか」

 一行はぞろぞろとトンネルを出て車に戻る。会話もそこそこに来たときと同じく後部座席に乗り込むと、車は砂利の多いひび割れたアスファルトの道を走り出した。

(疲れた……)

 いきなり心霊スポットに連れていかれ、あんな霊と対峙させられて。一生分のハラハラを味わわされた気分だ。もうお化け屋敷に行ってもひとつも怖くないし驚かない自信がある。

 往路では高そうな座席に緊張しっぱなしだったが、今は疲労感で少し重い身体にふかふかの座席がありがたい。

 全部が済んだ。あとは帰るだけ。そう、夜花は油断していた。

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