二章④

「この車、どこへ向かってるの!? もう境ヶ淵から出ているし、だんだん街が遠ざかっていくんだけど!?」

「ああ、トンネルだよ。旧逆矢さかやトンネル」

「そこって、し、心霊スポットの……?」

「そう」

 少しも悪びれず、千歳は艶のある切れ長の目を愉快そうに細める。完全に面白がっている。

「聞いてない!」

「訊かれてないんでね。それに考えてみなよ。社城家の役職は神祇官だろう。神祇官は怪異をときに退治し、ときに管理する。心霊現象は?」

「……怪異、だけど」

「だったら、心霊スポットに対処するのも神祇官の領分ってことだ」


 彼の説明は理路整然としているけれど、だからといってすんなり納得できるものでもない。

 旧逆矢トンネルは今ではほとんど使われていない古いトンネルで、付近の地元民の間では常識レベルの心霊スポットだ。隣市が所在地ではあるが、境ヶ淵でも知らない者はいないくらい有名である。

 たまに誰それが肝試しに行くとか行かないとかいう話も聞く。

 しかし心霊スポットは人気のない、老朽化した建造物であることも多いので、単純に危険だ。少なくとも夜花はわざわざ近寄ろうとは思わない。

「大丈夫。あそこは社城家の術師が何度も行っているから、危険はないよ」

 あっけらかんとするこの少年の言葉をどこまで信じてよいものか。


(不安だ……)

 言い合っている間にも車は山道に突入し、対向車もずいぶん減ってしまった。

 道路脇の鬱蒼と茂る木々の葉は季節柄、鮮やかな新緑が目立ち、薄曇りの弱い日差しを受けて木漏れ日がときどき煌めく。昼間ゆえ、怖ろしくは感じないが、もし夜だったら不気味だろう。

 山道を途中で逸れ、やや傾斜の激しい小道に入ってさらに登る。目的地はその先にあった。

 社城家専属の運転手は慣れたものなのか、片側が斜面になっている細い道でも躊躇せず車を進め、危なげなくトンネルの前に停車させた。

 窓の外に、ぽっかりと黒い大穴を開けたトンネルが見える。


(い、行きたくないよぉ)

 できるなら今からでも引き返したい。いや、車から出ないだけでもいい。とにかくトンネルに近づきたくない。なぜなら。

(私、怪異が視えるようになっちゃったから……!)

 怪異が視えるのだから当然、幽霊も視えるはず。視たくない。怪談で聞くような、血まみれの人やら死に際の姿やらは勘弁してほしい。それもあって、昨晩は千歳の家に泊まったのだ。


「じゃ、行くぞ」

 千歳はさっさと車のドアを開けて外へ出ていく。

《なにをしてるのです。お前も行くのです》

 ここまで沈黙を保っていた壱号に、頭をぺしぺしと小さな前脚で叩かれる。毛でもふもふとしていてまったく痛くないが、和んでいる余裕はない。

「行きたくない……」

《ここまで来ておいて、それは聞けないのです。腑抜けなのです。腰抜けなのです!》

 残念ながら、多少罵られたくらいで夜花の意思は曲がらない。日頃、祖母から精神攻撃を受け続けてきた賜物である。うれしくない。


 すると、壱号は実力行使に打って出た。なんと、夜花の髪をかじり始めたのだ。痛みはないものの、微妙な不快感と髪型が崩れる感覚がある。

「ちょ、ちょっと待って、かじらないで!」

《だったら早く行くのです。うさも助勢しなければ、あのガキだけでは力不足なのです》

「うう……」

 頭の不快感など恐怖に勝るものではない。しかし、ここまでされて平気でいられるほど悪人ではないつもりだ。

 夜花はおもむろにドアに手をかけ、そろりそろりと車を降りた。

 風の吹く黒い大穴の前に千歳がひとりで立っている。夜花は一歩一歩、慎重に歩を進め、なんとかその斜め後ろまで近寄った。現時点ではまだ、幽霊のようなものは視えない。


「ここでなにをするの? 幽霊を祓う?」

 訊ねた夜花に、千歳は振り返って安心させるように不敵に笑う。

「だいたいそんな感じ。このトンネル、位置がよくなくてね。祓っても祓っても、しばらく経つととどうしても霊の吹き溜まりになる。だから、定期的な点検と浄化が必要なんだけど、なにしろたいした仕事じゃないものだから、実績にならないって序列者たちはやりたがらないんだ」

 ついてきて、と千歳に促され、夜花は意を決して足を踏み出した。

 正直なところ、千歳の背に隠れたい気持ちがやまやまなのだが、年上としてそれはあまりにも情けない。夜花のなけなしのプライドだ。


 トンネルの中は初夏とは思えないほどの冷気で満ち満ちていた。ぴちょん、と水滴の落ちる音が響く。時折吹き抜ける風は湿っぽくて生臭く、ひやりと夜花の手脚を撫でていく。風が吹くたびに風音がトンネルに反響し、おおお、と唸り声のように鳴るのも薄気味悪い。


「い、いる……」

 夜花は知らず、小さくつぶやく。

 明かりがなく、真っ暗なトンネル内。出入口の日の光だけが頼りだが、真っ暗な中でもぼんやりと人影に似た白っぽいなにかが視える。ひとつではない。ふたつ、みっつ。否、もっといる。

 怖れていたようなショッキングな外見の幽霊ではなく、ただただもの悲しく、寂しく、不気味な――陽炎にも似た人影だ。

 それでも、ぞぞぞ、と身の毛がよだった。


「視えたか。ここにいるのはだいたいが流されてきた霊で、力は強くない。生前の姿をあまり保てないほどにね。だからまとめて浄化してやろう。……夜花、俺から離れるな」

 千歳はそう言うと、柏手をゆっくりと高らかに二度打つ。


高天原たかまのはら神留かむづまりすめら親神漏岐命むつかむろぎ神漏美命かむろみのみことちて八百万やおよろず神等かみたち神集かむつどえに集賜つどえたま神議かむはかりにはかり賜いて――」


 朗々と明快に、透きとおるような祝詞が真っ直ぐにトンネルを貫く。

 千歳の少年らしい声は鈴が鳴るがごとく美しく、彼のひと言ひと言は澱んだ空気を切り裂き吹き飛ばす聖なる矢であった。

 みるみるトンネルに清浄な気配が満ちるのを、肌で感じる。


(すごい……)

 霊たちがだんだんと薄くなって消えてゆく。

 ところが、心地よく清浄な空気に浸っていた夜花の背筋に、ぞくり、と悪寒が走る。

 頭上で壱号がぶう、ぶう、と鼻を鳴らし始めた。

「な、なに?」

 咄嗟に、夜花は嫌な感覚のあった背後を無意識に振り返る。


《気を抜くな、なのです!》

 壱号の警告が耳に届いたときには手遅れだった。

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