一章①「宴会なんて、二度とごめんだわ」

 忘れたくても忘れられない日、というものは存在する。

 坂木夜花にとってのそれは、あの日――高校二年生の七月。

 梅雨の真っただ中で、空には灰色の雨雲がかかり、雨は降っていなくとも湿度が高く蒸し暑かった、七月四日。

 のちに夜花が深くかかわることになる一族、社城家にとっては、後継者を決める最も重要な儀式『家督継承の儀』が、二十四年ぶりに始まった日である。


   ◇◆◇


 ――前日、七月三日。

 思えばこの日から、夜花の不運は始まっていた。


 その日の最後のチャイムが鳴る。

 教室内は心なしか平和ボケしたような、緩慢な空気が漂っていた。あと二週間と少し経てば夏休みに入り、かつ、しばらくテストなどの予定がないためだろう。

 そんな生徒たちに、教壇に立つ教師もうんざりしているらしい。「今日はここまでにします。気を抜かずきちんと復習しておくように」とだけ告げ、教科書を閉じるとさっさと教室を出ていった。


「ねえねえ、夜花、夏休みに入ったら一緒にどこか行こうよ」

 鞄に荷物をまとめ始めていた夜花は、隣の席の友人、知佳ちかに声をかけられ、手を止めた。

「知佳ってば、もう夏休みの話? 早くない?」

「えー、いいじゃん。一緒に楽しいところに出かけようよ。海とか!」

「海かぁ……いいね。ただ、バイトのシフトしだいかなぁ」

 夜花は今月のシフト表を記憶の底からおぼろげに引っ張りだし、思案する。

「来月のシフト希望は?」

「まだ。だから行くなら早めに予定立てちゃいたいね」

「だね。じゃ、行先はまたあとで決めるとしてさ、まずは都合よさそうな日を確認しとく?」

 知佳の提案に、夜花はうなずいた。

「そうだね、そうしよ」

 友人同士の何気ない日常のやりとり。そこへ、水を差すように横合いから、ぷ、と誰かが噴き出すのが聞こえた。


 夜花と知佳は同時に声のしたほうを見やる。笑い声の主など確認するまでもなくわかっており、知佳が険のあるまなざしで睨みながら問うた。

立久保たちくぼさん、どうかした?」

「いいえ。ただ、勉強に遊びに、アルバイトもしなきゃいけないなんて、遠縁とはいえ社城家の血を受け継いでいるのに坂木さんは大変だと思って」

 斜め後ろの席の立久保京那きょうなは、夜花と知佳を見下すように余裕たっぷりに答える。髪をハーフアップにした、いかにもお嬢さまらしい美人ではあるけれど、表情に若干、高慢さが見え隠れしている。


「慣れればたいして大変でもないよ。まあ、社城家の序列に入っている立久保さんなら、そういうことに慣れる必要もないかもしれないけど……」

 京那の嫌みにはもう慣れっこだ。夜花は適当な言葉を返しつつ、荷物をまとめる手を再び動かし始めた。

「そうね。社城家序列十四位のあたしにはまったくわからない世界だわ」

「……それを自分で言うかね」

 やけに芝居がかったしぐさで、つん、とすまし顔をした京那に、隣で知佳が呆れた様子でぼやく。

 とはいえ、京那が由緒正しい家の令嬢であるのは確かである。これ以上の問答は不毛でしかない。夜花と知佳は顔を見合わせて席を立った。


 教室を出ると、廊下はすでに帰路につく生徒たちで賑わっていた。

「あのお嬢さまの言うこと、気にすることないよ。夜花は頑張ってる。成績だっていいし」

 励ますように声をかけてくれる知佳に、おのずと笑みがこぼれる。

「ありがと。でもたいして気にしてない。……私の夢は、早く自立して立派に稼げるようになることだからね」

「そうだった。さ、お嬢さまは放っておいて私たちは帰ろう」

「うん」

 うなずいたところで夜花はふと、背後に視線を感じて振り返った。


 まだ教室に残っているひとりの生徒と目が合う。だが、相手は慌てて目を逸らし、何事もなかったかのように手元の鞄に視線を落とす。

(小澄さんか)

 黒に近い焦げ茶色の髪を肩過ぎまで伸ばし、容姿は十人並みで化粧っ気がない。よく言えば落ち着きがある、悪く言えば地味。視線の主はそんな見た目どおり、普段から物静かで大人しく、あまり話すこともないクラスメイト、小澄はれだった。

 近頃、彼女とよく目が合う。


「どうかした?」

 不思議そうに訊ねてきた知佳に、夜花は首を横に振る。

「なんでもない」

 先々月末の課外授業で夜花と晴、二人でそろって湖に落ちてしまったのは記憶に新しい。もっと言えば、幼稚園が同じだった縁もある。が、別に仲が良かったわけでもない。

(なにか話があるとか? でも、私のほうに用はないしなあ)

 クラスメイトといえど、かかわりの薄い相手に用もなく話しかけるのは少々ハードルが高い。よく目が合うといっても、夜花の勘違いかもしれなかった。


 校舎を出て駐輪場に寄り、知佳と校門前で別れると、夜花は自転車にまたがってゆっくりペダルを漕ぎだした。

 時刻は十六時前。

 薄い色の長い髪とスカートの裾をなびかせ、自転車を走らせる。

 夏至を過ぎてもまだまだ日は長く、夏の陽光が明るい空から容赦なく照りつける。生温い風が頬に吹きつけてきて、セーラー服の下の肌にじっとり汗が滲んだ。

 見慣れた住宅街の平らなアスファルトの道を突っ切れば、少し景色が開けて、遠くのほうに山々の稜線がはっきりと見えた。道の両側は田畑と住宅がまばらにあり、電柱が道に沿って等間隔に立っている。

 地方都市の繁華街から外れた、ありふれた田舎の景色だ。

 ここは、境ヶ淵(さかいがふち)市。社城家という、由緒正しい名家が絶対の権威を誇る、特殊な土地である。


 社城家は――『神祇官かむつかさ』の一族だ。

 神祇官とは、幽霊や妖怪、神といった『怪異』をときに退治し、ときに保護、管理をし、あるいは祭祀などを行って、人と共存できるように働く役目をいう。社城家は古くから、代々それを担ってきた。

 俗にいう拝み屋や霊能者などに近い、『術師』の仕事を生業としているのだ。

 現代では、怪異や術師といった存在を実際に信じる者は少ない。しかし、社城家の歴史は長く、かの家には長い年月で積み上げられた莫大な財産と権力がある。ゆえに、このあたり一帯で社城家といえば、絶対の権力者として有名だった。

 京那が鼻高々なのは、彼女が社城家に連なる生まれであるところが大きい。

(私も社城家の遠縁ではあるけど、だいぶ血も薄いし)

 夜花は自転車を漕ぎながら、苦笑いする。

「そもそも、私は怪異を視ることすらできないしね……」

 夜花には怪異を視る力がない。いわゆる霊能力のようなものとは、とんと縁がなかった。


 社城家には、次期当主候補の若き術師たちをランク付けする『序列』なる重要な制度があるが、怪異の視えない夜花は序列入りできる要件にかすりもしない。

 一方、夜花と違って同学年の京那は序列に入っている。

 同じ社城家の血を引く人間であるものの、京那は序列入りできる術師としての才覚を持ち、夜花はただの女子高生。

(立久保さんとは……社城家の術師たちとは、住む世界が違う)

 幸い、夜花が直系から遠すぎることもあり、扱いの違いは生まれたときからなので、今さら気にならない。普通に学業に励み、普通に就職し、独り立ちして生きていけばいいだけだ。世の中の大多数の人は、怪異やら術師やらとは無縁の生活をしているのだから。


『選びなさい。呑むか、呑まぬか』

 怪異の視えない夜花の不思議な体験は、後にも先にもつい先日の――あの夢だけである。

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