宵を待つ月の物語 一
顎木あくみ
プロローグ 異境と人境のあわいにて
ここは、どこだろう。
周囲の景色は、ひどく見慣れない――夢でも見ているのかと疑うほど不可思議だった。
足元は見渡すかぎりの、凪いだ水面。
視線を上に移せば空は暗く、藍色に染まっている。
否、空かどうかはわからない。月も太陽も、星も雲もない。けれどほんのり明るく、その空の藍色が水面に映って、まるで空と水とが繋がっているように目の前は藍一色だった。
夜花が立っているのは、どうやら一面の水の中に浮かぶ小島らしい。
踏みしめたスニーカーの足裏に、しっかりとした感触が伝わってくる。固いけれど、表面は少し柔らかい。草か苔の生えた土の地面のように感じる。
(ここ、どこ? 私、どうしてこんなところに?)
服装は制服。よく身体に馴染んだ黒のセーラー服で、どこにもおかしなことはない。
直前の記憶をたどる。――そうだ、夜花は池に落ちたのだ。
高校の課外授業で、夜花たち二年生はとある湖を訪れていた。木々に囲まれた小さな湖で、周りには遊歩道が設けられており、自由行動の間、好きに散策することができた。
事故が起きたのは、そのときのこと。
友人たちとしゃべりながら遊歩道を歩いていた夜花は、ほかのクラスメイトとすれ違いざま、不注意でぶつかってしまった。そしてそのまま運悪く大きくバランスを崩し、夜花とぶつかったクラスメイトの女子は二人とも、湖へ。
耳元で響いた、ざぶん、という派手な水音と、水面に身体が叩きつけられる衝撃。確かに記憶にある。間違いなく、夜花は湖に落ちた。
だというのに、ここはいったいどこなのか。
(
一緒に湖に落ちたクラスメイトの姿をちらりと捜し、存在しないことを確認する。そもそも、夜花のほかに人の気配はない。
つまりは湖に落ちた衝撃で意識が飛び、夢を見ているのだろう。
それにしても、不思議な夢である。こんなふうにはっきりと、地面の感触さえあるのだから。
ふと、背後を振り返る。
少し離れたところに、一本の大樹が、淡く紫色の光を発しながらそびえ立っていた。光る木……さすがに夢の中では、おかしな植物もあるものだ。
吸い寄せられるように、夜花は木に近づく。
(大きい)
その木は正真正銘、本物の大樹だった。夜花が両手を伸ばしても、到底抱えられそうにないくらいに幹が太い。それどころか、夜花が十人で輪になっても一周に届くかどうか。
よくよく見ると、幾本もの太い幹が絡み合うようにして、さらに太い一本の幹を作り出している。
淡い光は、その絡み合った幹たちの隙間から漏れ出ていた。隙間はたくさんあって、紫光はそのすべてから、ぼう、と仄かに放たれている。ゆえに、幹全体が薄っすらと紫色に発光しているように見えるのだ。
その幹の上部は曲がりくねり、真っ青な葉をつけ、ところどころに黒い花のようなものもある。
「――選びなさい」
突然、ひどく平坦な声が聞こえた。
驚いて声のしたほうへ目を向けると、幹の根元、夜花の斜め前にひとりの青年が佇んでいる。
(誰もいないと思っていたのに……)
夜花は息を呑んだ。
実際、こうしている今も彼にはまるで存在感がない。実体がないように思えるのだ。儚い、幻影のような。ゆめまぼろしのような。
青年は真っ白で裾の長い、着物に似た服をまとう。さながら、神話に出てくる神に似ていた。真っ直ぐな髪も白く、肌も青白い。顔立ちはおそろしく整っているけれど、どこか無機質な人形のごとき印象を受ける。
人というより物のようで、いるというよりあるようだった。
そろり、と青年は衣擦れの音だけを立てて、夜花の眼前まで寄ってくる。その手に、金色に光る杯を持って。
「選びなさい。呑むか、呑まぬか」
青年は杯を夜花に差し出し、問うた。
杯には透明な水がなみなみと満ちていた。色も匂いもないのに、なぜかとても美味しそうだ。
夜花はじっと杯の水を眺めてから、青年の顔を見た。
「呑んだら、どうなりますか」
訊ねた夜花に、青年はやや意外そうに目を瞬かせる。しかしそれは一瞬のことで、すぐまた人形のような無表情に戻り、答えた。
「君は『まれびと』に」
「まれ、びと?」
「その結果、どうにかなるかもしれないし、ならないかもしれない。あとはすべて、君しだい。けれど」
――きっと、今のままではいられない。
夜花はつかの間、逡巡する。
今のままではいられない。すなわち、今までとは何かが変わるということ。それが良いほうなのか、悪いほうなのかはわからないが。
(でも、本当に何かが変わるとしたら)
それも悪くない。このままではいたくないと、ちょうど思っていたところだ。
できるなら。
出来損ないだと罵られ、己の性分や力不足に嘆く日々を変えたい。
この胸にぽっかりとある空洞をひとりでも埋められるような、ひとりで立って歩ける強さがほしい。
そうしたらきっと、自分だけの居場所が見つけられるのではないかと、思うから。
「わかりました。じゃあ――」
青年の瞳を見つめ返したときには、すでに心は決まっていた。
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