一章②

 自転車で三十分ほどかけ、夜花は帰宅した。

 夜花は古い木造平屋の一軒家に、祖母と二人で住んでいる。

 父は夜花が小学校に入学してすぐの頃に事故で亡くなり、一緒に暮らしていた母も二年前に病気で亡くなった。そんな夜花を引き取ってくれたのが、ひとりでこの家に住んでいる父方の祖母だ。

 ちなみに、社城家と縁があるのは彼女の亡くなった夫、夜花の父方の祖父である。


「ただいま」

 玄関の引き戸を開け、夜花は家の中に入る。

 生活感のある古い家の匂いが、熱をもってむっと鼻をつく。二年住んでいても、なんとなく他人の家に上がりこむような違和感が抜けない。

 夜花は荷物を持ったまま居間を通り抜け、奥の仏間へ続く襖を開けた。


「おばあちゃん、ただいま」

 仏間の壁際には立派な仏壇が置かれ、焚かれた線香から細く煙がたなびく。

 祖母――坂木鶴は、仏壇から一歩分離れたところに座布団を敷き、小さな背を丸めて、じっと座っていた。

 鶴はこちらにゆっくり振り向くと「ああ、帰ったのかい」と掠れた声で返してくる。

「……うん。じゃあ私、部屋にいるから」

 七十歳になる祖母だが、しゃんとして元気があり、目には冷たく鋭い光が宿っている。

 長居は無用だと襖を閉めようとした夜花を、鶴は「待ちな」と有無を言わせぬ強い口調で引き留めた。


「夜花」

「……な、なに?」

「あんた、明日は社城家本家のお屋敷に行きな」

「は?」

 聞き間違いだろうか。夜花は眉をひそめる。その態度がお気に召さなかったらしく、鶴は苛立たしげに再度、口を開いた。

「あんたは明日、朝から社城のお屋敷に行くんだよ。なにをぼんやりしてるんだい」

 祖母の言い方はいつもこうだ。母が生きているときから変わらず、常に喧嘩腰で嫌みたらしい。


 夜花はかちんときて、言い返す。

「はあ? なに言ってるの。明日は木曜日、平日だよ。学校があるの。朝から社城のお屋敷に行くなんて、無理に決まってるでしょ。だいたい、なんで私が社城家なんかに行かなきゃいけないの?」

「明日の夜、社城家では序列に入っている方々の大事な大事な宴会がある。雑用に人手が必要なんだよ。下手なよそ者を屋敷に入れるわけにいかないから、遠縁の女たちが集められるんだ」

「宴会が夜なら、朝から行かなくたっていいじゃない。何度も言うけど、私、学校があるの」

「馬鹿者。朝から準備が必要に決まってるだろ。そんなこともわからないのかい。学校なんぞ、休んだって誰も困りゃしないよ」


 呆れかえり、見下すような鶴の口ぶりが、夜花の神経をますます逆撫でする。真っ黒で粘ついたものが腹の底に澱んでいくのがわかった。

「そんな簡単に……」

「なんだい。文句でもあるのかい。学校より社城に尽くすほうが大事だよ。ただでさえ、あんたは出来損ないののろまなんだから」

 信じられない、と悪い意味で驚く。現代に、ここまで学校教育を軽んじる人間がまだいようとは。

 あまりの祖母の言い草に、ただ絶句するしかない。

「そもそもね、あんたに才能があれば、社城家の序列に入れさえすれば、雑用なんかじゃなく宴会の参加者になれたんだ。でもあんたには才能がない。だから雑用としてでもなんでも屋敷に行って、序列入りしている男と知り合ってきな」


 宴会を機に、夜花が序列入りしている男性と知り合って懇意になれば、社城家に出入りし、その恩恵に預かれる。それが彼女の魂胆なのだろう。

 昔からそうだ。鶴は、とにかく社城家にこだわる。

 社城家という名家の一員になりたい、そのために社城家と縁のある祖父に嫁入りし、息子である父や、孫の夜花を術師にして序列入りさせたかったらしい。けれども、父も夜花も怪異を身近に感じることができない性質で、彼女にとって期待外れだった。

 だからいつも、彼女は夜花を『出来損ない』と罵る。

 母が生きていた頃は、母にもねちねちと嫌みっぽく接していた。夜花が出来損ないなのは、母が不甲斐ないせいだと。


 怒りが頂点に達し、逆に冷静になってきた夜花は大きく息を吐く。

「普通、高校生に男と知り合えとか言う? ありえない」

「口ごたえするんじゃないよ。こっちはいつだってあんたをこの家から叩き出せるんだからね」

「…………」

 夜花は歯噛みする。住処を盾にするなんて。

 母が遺した保険金はあれど、未成年の夜花の自由にはならず、アルバイトをしてもひとり暮らしができるまでにはほど遠い。他に頼れる親類もなく、今の夜花が住める場所はここしかないのに。


(……卑怯だ)

 祖母への感謝がまったくないわけではない。

 鶴が夜花を引き取ってくれなければ、夜花の生活はどうなっていたかわからないし、もしかしたら高校にだって通えなかったかもしれない。それでも、夜花にだって心も意思もある。

(早く、ここから出ていきたい)

 あからさまなくらいの不満を滲ませて、夜花は返事もせずに身を翻す。

「夜花、あんたに拒否する権利はないよ。明日は朝七時には支度をして出かけるんだ。ちゃんと行ったか、本家に電話をして確認するからね。途中で逃げても無駄だよ」


 背に投げかけられた鶴の言葉を最後まで聞かないまま、ぴしゃり、と勢いよく仏間の襖を閉める。

 泣きたくなんてないのに、目元が熱を帯びる。

『夜花、あなたはずっと元気でいてね。でも、頑張りすぎないで。あなたは賢くていい子だからつい頑張りすぎちゃうんだろうけど、つらいときは誰かに頼っていいんだから』

 そう言って、病床の母が頭を撫でてくれたのを思い出す。

 母が生きていた頃は幸せだった。二人きりの家族で、たまに衝突もしたけれど、母の愛はいつも感じていたから。

 だが、鶴はどうだ。夜花を社城家に取り入るための道具としか思っていない気がする。


 重い足取りで、自室として与えられた和室に向かう。

 襖の向こうには安い折りたたみ式のローテーブルと布団、古びた箪笥、二年経ってもまだ片付けきっていない積みっぱなしの段ボールだけがある。

 自分の部屋があって、毎日の食事に困らず、学校にも通えて。両親を亡くした夜花がこれ以上を望むのは、我がままなのだろうか。

 けれど、ここはあまりに居心地が悪い。

「ああもう! 馬鹿って言うほうが馬鹿なのよ! おばあちゃんの馬鹿!」

 夜花は畳の上に荷物を放り出し、吐き捨てながらローテーブルに突っ伏した。

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