一章③
◇◆◇
翌――七月四日、木曜日。
早朝、夜花は自転車を走らせ、制服姿で社城家の屋敷に向かった。
真っ直ぐな田舎道に平行に、ずっと先まで続く漆喰の白い塀。どこまでも同じ景色でうんざりしてくる頃それは途切れて、目を瞠るほどの巨大な門が現れる。
太い四本の木柱の上に黒い瓦の切妻屋根が載せられ、両開きの扉がついた、いかにも古そうな見事な薬医門である。幅も相当広く、自動車一台が余裕で通過できるほど。
このあたりの人間ならば小さな子どもから老人まで誰もが知っている、社城家本家の屋敷の、その門だ。
「憂鬱だわ……」
自転車から降り、やたらと大きい門を見上げて、夜花は嘆息した。
朝になったら鶴の気も変わるのでは、と淡く期待したものの、やはりだめだった。それどころか一緒に朝食をとっている最中、
『あんた、今夜は帰ってこなくていいからね。社城家の男をものにしてきな』
と、すました顔をする始末。どう考えても祖母が未成年の孫に言うセリフではない。
結局、平日の朝から学校にも行かずに働くはめになった。
給金は出るのだろうか。せめて報酬がもらえればまだいいが、もしボランティアだったら救いがなさすぎる。
門前には、ぽつんとひとつだけ人影があった。
夜花は自転車を押し、その人に近づく。
首元の鮮やかな翠の留め具のループタイが目を引く、老いた男性だ。彼は夜花を見とめ、にこにこと人のよさそうな笑みを浮かべた。
「お嬢さん、どうかしたかな?」
「あ、はい。私、坂木夜花といいます。今日の宴会の手伝いに来ました」
鶴が話を通していなかったらどうしよう、と内心で緊張しつつ名乗る夜花に、老爺は笑みを深める。
「坂木さん。聞いていますよ、来てくれてありがとう」
その答えを聞き、夜花はほっと胸を撫でおろした。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。さっそくだけれど、自転車は車庫の近くの駐輪場へ。そのあと、正面玄関に回ってもらって、中にいる女性のお手伝いさんの指示を仰いでもらえるかい」
「わかりました。ありがとうございます」
夜花はうなずき、門をくぐる。
中には綺麗に石畳が敷かれた道があり、その道の脇は松などが植えられた美しい庭園になっていた。
門をくぐってすぐ左へ逸れる道がある。目を引く庭を眺めながら歩き、自転車を駐輪場所へ置くと、再び正面に続く石畳の道に戻って、ようやく玄関にたどり着くことができた。
(やっとね……車庫から玄関まで遠すぎ)
この屋敷に来るのはこれが三度目だが、広すぎて、敷地内を移動するのも毎度ひと苦労だ。
(あれ?)
ふと、かすかに爽やかな柑橘に似た香りが鼻をかすめる。
なんの香りだろう。蜜柑か、オレンジか。柚子や金柑かもしれない。すっきりとして夏らしく、どこか懐かしさを感じさせるいい香りだ。
確か、父方の祖父が亡くなったときと、父が亡くなったときの二度、短時間だがこの屋敷へ来たときに、同じようにふわりとほのかに香っていたのを思い出す。
「よし」
切り替えよう。不満ばかり抱いていても、なにも生まない。気に食わない一族の屋敷でも、働くと決めたからには真面目に臨むべきだ。
夜花は視線を真正面に戻し、ぐっと手に力をこめた。
「まだそんなところを掃除してるの? 早く終わらせて、こっちを手伝ってくれない?」
「はい!」
「今日使うのはその置物じゃないわ。もう一回、捜してきて」
「わかりました!」
「お膳がひとつ足りないわ。早く追加を用意して」
「はい、ただいま!」
夜花は勢いよく返事をし、小股で屋敷内を駆け回る。
宴会の準備は多忙を極めた。
何しろ準備にかかわっているのは、もともと社城家で働いている使用人が十人程度、手伝いは夜花を含めても今いるだけで七人ほど。
しかも、手伝いで派遣されてきている女性たちはそろって二十歳前後、華やかなメイクやネイルまでばっちり整えた者たちばかりで、ちっとも働かない。
あわよくば将来有望な序列者たちに近づくのが目的だと、隠しもしないのである。社会人か学生か知らないが、平日なのに恐れ入る。
結果、真面目に仕事に取り組む夜花に多くの雑用が降りかかった。
広大な木造の屋敷を隅々まで掃除するだけでも手が足りない上、会場や必要な物品に不備がないか、調度はどうかと目が回るほどの忙しさだ。
(着物だと動きにくい……)
運ぶよう頼まれた膳を持って板張りの廊下を歩きながら、夜花はため息を呑みこんだ。
手伝いは全員、浅緋の無地の着物を着つけてもらい、襷をかけ、仲居のような格好をしている。慣れない着物では足さばきもぎこちなくなってしまい、すこぶる能率が悪い。
しかし、今夜の宴会は、社城家次期当主の選定にかかわる重要なものらしい。
なんでも『家督継承の儀』――『継承戦』といって、序列者たちが次期当主の座を巡って争う儀式の始まりに際してのものだとか。
一介の手伝いにまで服装の徹底を求めるのも、宴会の重要性からすれば当然なのかもしれなかった。
膳を台所に運び終わると、間髪容れずに今度は年嵩の使用人の女性に呼び止められる。
「あなた、坂木さんだったかしら、次は東側の廊下の窓拭きを頼むわ」
「はい。……あれ? でも、そこはさっき、他の手伝いの方たちの担当と聞いたような……」
「彼女たちに任せておいたら、いつまで経っても終わらないのよ」
「ああ……」
夜花はあきらめ交じりに、思わず遠い目をした。
(私、すっかり貧乏くじ体質だ)
横暴な祖母と暮らしていると、やれ食事を作れ、掃除をしろ、洗濯を干せと言いつけられ、最後は「こんなんじゃ嫁のもらい手がないよ」と評価を下される。
それに応じていたらこうだ。
働き者だと褒められることもあるが、やはり損だと感じることのほうが多い。便利に使われて、何者にもなれない役どころだから。
(……なにかが変わるって、少しは期待したのにな)
廊下を移動しながら、窓の外からちらりと庭を見遣る。
庭には澄んだ水を湛えた池があり、そよ風に吹かれるたびにさざ波を立てて、波紋を広げていた。
湖に落ちて、不思議な夢を見たあの日。あのときの自分の選択にほのかな期待を抱いたけれど、なにも変わらないままだった。
(ダメダメ。夢見がちなのもいい加減にしないと。私は堅実に生きればいいの)
窓から視線を外し、水の入った重たいバケツと雑巾を持って東側の廊下へ向かう。
案の定、そこにはのろのろとした動きの浅緋の着物の女性たちがいた。
窓拭きをしているのだか、していないのだか、雑巾で窓をひと拭きしては懐から手鏡を取り出して前髪を整え、雑巾をひと絞りしては派手な爪を眺めている。
夜花が作業に加わるため声をかけると、彼女たちは興味なさそうに「ふーん」とか「そう」とか返事をした。「じゃあ頑張ってね」と他人事のようだ。
(怒らない、怒らない)
敵意がないことをアピールするための笑みを顔に貼りつけて、夜花はせっせと窓拭きをする。
すると、女性たちの会話が自然と耳に入ってきた。
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