一章⑥
「え?」
顔を上げると、いつの間にかすぐ近くに少年が立っている。彼は微妙な笑みを浮かべ、夜花に向かってタオルを差し出していた。
「使いなよ、これ」
「……いいの?」
「もちろん。そのために持ってきたから」
「あ、ありがとう」
夜花は遠慮がちにタオルを受け取り、少年を見る。
(誰だろう)
奇妙な格好の少年だ。
背丈と声からして、歳は中学一年生かそこら。着ている服は、バンカラ風というのだろうか。黒の学ランの上下に頭には学帽、肩に上半身を覆うくらいの丈の黒いマントを羽織り、高下駄を履いている。
顔立ちも、年相応の幼さはあれど、先ほどの瑞李に負けず劣らず美しい。目はすっきりと切れ長の二重、すっと鼻筋が通っていて唇は薄い。
両耳に赤い鳥居のモチーフの耳飾りをつけ、胸の下くらいまでの長い黒髪を緩く一本の三つ編みにして肩から前へ垂らしているのが、なんとも妖しげである。
(不思議な雰囲気の子……)
明らかに夜花より年下の外見であるのに、濡れた夜花をからかうわけでもなく、見知らぬ年上の女に話しかけるのに気後れするでもない。
泰然としたその佇まいは、ひどく大人びている。
「悪かったな。……家の者が、失礼をした」
「え、あ、ううん。そんな、あなたが謝ることじゃないよ。池に落ちたのも、事故みたいなものだし」
夜花は勢いよくかぶりを振る。
笑みを引っ込め、謝罪を口にする少年の姿はいたたまれない。大人にされた無礼を関係のない年下の子に謝らせては、夜花のほうが申し訳なく思えてしまう。
「いやでも、腹は立ったんじゃ?」
「まあ……ちょっとはね。けど、あなたがタオルを貸してくれたからもういいかな」
ははは、と夜花は笑って見せる。
正直ちょっとどころではなく怒ってはいた。とはいえ、もちろん少年に対してではないし、祖母と相対しているときと比べたら、たいしたことではない。
「とにかく、ありがとう。このままじゃ気持ち悪いし、今日はもう着替えて帰るよ」
さすがにこんなありさまの夜花を、使用人たちも引き止めはしないはずだ。
と、そのまま立ち去ろうとした夜花に、少年は「なにを言ってるんだ」と言いたげな顔をした。
「いや、そんな格好じゃいくら夏だからって風邪ひくし、着替えるにしたって汚れとか匂いとか気になるだろ」
「……確かに」
ひとまず水滴などは拭えたが、水は着物の内側まで染みていて肌をも濡らしている。池の水もそこまで汚くはないけれど、綺麗でもない。はっきりいって、生臭い。
このまま着替えて帰るのは少年の言うとおり、難しそうだ。
「シャ、シャワーとか……頼んだら、借りられるのかな」
「なら、うちの風呂場を貸すよ。――ゆきうさ、出てこい」
少年がにわかに宙に向かって呼びかけた。すると、ぽふん、と音がして、彼の手の上に小さな生き物が現れる。
「わっ」
最初は白いネズミかと思ったが、違う。
(……雪うさぎ?)
それは、丸めた雪に南天の葉と実をつけて作る、いわゆる雪うさぎによく似ていた。が、雪でできているわけではなく、白いふわふわの毛並みと、くりくりとした赤い瞳を持ち、緑色の……耳のような角のようなもののついた小動物だった。
愛くるしい見た目だが、どう見ても普通の動物ではない。ということは、おそらく怪異の類い。
まただ。また、怪異が視える。自分には視えないはずのものが、瞳に映る。
「あ、あの、ええと、もしかしてその子、君に憑いている……怪異?」
おっかなびっくり訊ねた夜花に、少年は意外そうに眉を上げた。
「ちょっと違うけど、そんなようなものだな。知ってるのか、社城のしきたりのこと」
「……うん。これでも社城の遠縁だし、一応、生まれてすぐ『
「でも、あんたは『怪異憑き』じゃないよな。怪異の気配がない」
なにげない少年の言葉がぐっさりと胸に突き刺さった。彼は事実を述べただけで、決して夜花を貶めるつもりはないだろうけれど。
『あんたには才能がない』
昨日の祖母の辛辣な物言いが思い起こされる。
いつもは気にしないようにしているし、実際あまり気にならない。それでも詰られ続けた心には言葉の棘につけられた小さな傷が無数にある。
じくじく膿む胸を奥に押し隠し、夜花は笑顔を取り繕った。
「さ、才能がなかったの。普段は怪異を視ることもできない。さっき金鵄を見たのが初めてで……今もなぜか視えてるけど」
怪異なんて視られなくても問題ない。一般人として、いくらでも生きる道はある。そんなことは百も承知だし、だからこそ、夜花は将来のために学業や労働など相応の努力をしている。
だが、社城家の中ではそうはいかない。
怪異が視えて当たり前、強い怪異に見初められ、より優れた術師になることが第一だ。
「ふうん」
嗤われるかもしれない。そう思った夜花の耳に、少年のどうでもよさそうな返事が飛び込んでくる。
「……笑わないの?」
「別に。俺も序列に入ってない落ちこぼれって呼ばれてるしな。社城家では怪異憑きであることが優れた術師になるための最低条件だけど、そんなのはこの家の中でだけの話だ。外へ出たら関係ない」
少年は意外にも、夜花と同じような考えを口にした。
「手、出して」
夜花が言われたとおりに両手を差し出すと、少年の掌上でじっと丸まっていた雪うさぎの怪異が夜花の手にぴょこん、と飛び移った。
「うわっ」
やはりその小さな身体は雪とは違い、生き物の温かさがある。外見とぬくもりとが一致せず妙な感じだが、本物の小動物のようで非常にかわいらしい。
「壱号。念のため、案内役よろしく」
《相変わらず、ゆきうさ使いの荒いガキなのです!》
「えっ?」
手の上のかわいい雪うさぎが、突如としてとんでもない暴言を吐く。夜花は仰天して、うっかり雪うさぎを落としそうになった。
「しゃ、しゃべった!」
「ちょっと口が悪いけど、気にしないでくれ」
「ええ……!?」
そんなことを言われても、夜花は今日初めて怪異を目にしたばかりで、触るのも初めてだ。怪異がしゃべっているのすら初めて聞いたくらいなので、あまり驚かせないでほしい。
慌てふためく夜花に、少年はくすり、と大人びた笑みを漏らした。
「――あんた、名前は?」
問われた夜花ははっとして、少年の凪いだ双眸を真っ直ぐに見つめ返す。
「私、夜花。坂木夜花だよ。あなたは?」
「俺は社城千歳。よろしく、夜花」
「よろしく、……ね」
刹那。
千歳と名乗った少年が見せた、あまりにも美しく、艶やかで、謎めいた魅力の微笑に、夜花は息をするのを忘れた。
年下の男子に呼び捨てにされたのも、気にならない。そのくらい目を奪われていた。
七月四日。
夜花にとってこの日が忘れられない日になったのは、彼――社城千歳との出会いという、決定的な人生の転換点があったからだ。
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