一章⑤

「何事だ!」

 男性の低い声とともに、どたどたと、複数の足音が近づく。

 使用人たちの間から「当主さま」とか「果涯さま」とかいう名前が挙がる。見れば、廊下にはおそらく宴会の参加者である当主以下、幹部、序列者たち、男女さまざまな人々が血相を変えて駆けつけていた。

「今、確かに屋敷の結界が揺らいだ! 侵入者がいるのか?」

 ひとりの青年の怒鳴るような問いに、膳を持ったままの使用人や手伝いの女性たちは揃って、視線を夜花たちのほうへ向ける。

 大勢の目が、夜花のいる池に集中した。


(なに? いったい、なにが起こってるの?)

 とてつもなく奇妙な光景であるのは疑うべくもない。

 池に座り込む女が二人に、それを廊下から凝視する、総勢三十人近い人々。誰も彼もがこの意味不明な状況を呑みこむのに必死なのだろう、時間の流れがひどく遅く感じた。

 けれど、時間が止まったかのように思えた静寂の中、ただひとりだけ、動き出した者がいた。

 廊下に殺到していた人混みがすっと、自然に開ける。

 そこから現れたのは、美青年、などという言葉では表現しきれないほどの容姿端麗な青年だった。


 年齢は二十歳すぎくらい。人並外れた美貌だ。

 日本人らしからぬ自然な白金色の髪は肩にぎりぎりかからないくらいの長さ、瞳は澄んでいて、不純物のない高価な宝石に似ている。目鼻立ちの端正さといったら、ガラス細工のように繊細である。

 ゆうに百八十センチは超えていそうな長身で、シンプルなシャツとチノパンという飾らない服装も、身に着けている青年の美貌とスタイルの良さで逆に様になっている。

 なにより目を引くのは、彼の肩に乗った、大きな猛禽類の鳥。

 金色に光る羽毛に覆われ、まぶしいほどのその姿は神々しく、単なる鳥ではないことを瞬時に周囲に悟らせる。


 誰かの「瑞李さま」という吐息交じりのつぶやきが聞こえた。

(もしかして、あの鳥が噂に聞く神鳥『金鵄』? ……ちょっと待って、どうして、私に視えるの?)

 夜花はさらなる混乱とともに息を呑む。

 しかし、あの巨鳥が金鵄ならば、彼こそが序列一位に君臨する――社城瑞李。

 瑞李はほとんど足音を立てないまま、しなやかな無駄のない動きで廊下から庭に降りた。視線は真っ直ぐこちらに向けられ、瞬きのひとつもない。靴を履かず庭に降りたせいで足裏が汚れることもいとわず、彼はこちらに近づいてくる。

(ま、待って、待って。どうしよう。怒られるのかな。いや、それより現状をどう説明すれば)

 いろんな意味で緊張しながら、しかし目を逸らせない夜花の目前に、瑞李が迫った。


「僕の、つがい」

 形のいい唇がかすかに動く。彼は一寸の躊躇もなく、ざぶざぶと、池の中に歩を進めた。

「間違いない。君が、僕の。唯一の伴侶だ」

 その言葉とともに、瑞李は夜花の前に立ち止まる。


 ……かと思いきや、立ち止まらなかった。彼は夜花の横を素通りし、後ろの晴の前に跪く。

「君の、名前は?」

 膝をついた瑞李が晴に恭しく手を差し伸べた。

 一方、手を差し伸べられた当の晴はといえば、困惑した面持ちで眉尻を下げ、目をさまよわせている。

「えっと、その……あの、わたし、小澄晴、です」

「晴。今日から君は、僕の唯一の人だ。ここは冷える。さあ、中に入ろう」

 なにを言っているのだろう、この美貌の青年は。

 呆然とする夜花を置き去りにして、そこからの出来事はあっという間に過ぎ去った。


 ずぶ濡れの晴を軽々と抱え上げた瑞李は、池から出ると同時に「彼女が僕の伴侶になる人だ」とよく通る声で宣言した。

 すると、その場の全員が驚きとともに一瞬にして彼を取り巻き、「彼女はまれびとではないか」「確かにまれびとだ」「まれびとが序列一位の伴侶になった」と口々に言いながら、慌ただしく動き出す。

 もう誰も、池に注目している者はいない。


「なんだったの、今の」

 あれだけ人が密集していたのに、今はさながら嵐が通り過ぎたあとのごとく。ただ池に落ちた夜花だけがぽつんと取り残されている。

 伴侶だとか、まれびとだとか。

 とても理解が及ばないが、先ほどまでのあれがたいそうな事件だったらしいのはわかった。そして、晴はなにかに選ばれ、夜花は選ばれなかったことも。

 狐につままれた気分とは、このことだ。

 どこかから、梟や蛙の鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。人の気配は遠く、庭は薄暗くて静かだった。


 夜花はようやく心を落ち着かせ、ゆっくりと立ち上がる。

 着物が水を吸って冷たく、重たい。だんだん、泣きたい気持ちになってくる。

(別に、小澄さんみたいにお姫さま抱っこしてほしいとは思ってないけど! でも、誰かひとりくらい私の心配をしてくれてもよくない?)

 夜花だけ、いきなり仲間外れにされたようだ。

 自分なりに一日頑張って働いたし、宴会の準備に貢献したつもりである。使用人の女性たちの中にだって、言葉を交わした者も何人もいる。だというのに、池に落ちた夜花を気にかけてくれた人はひとりもいない。あんまりではないか。


 腹の底から深く息を吐く。

 この濡れた身体では、屋敷に入るのも躊躇われる。かといってこのまま黙って帰るわけにもいかない。着替えや貴重品も控え室に置きっぱなしだ。

 考えるだけで頭が痛い。前髪から滴る雫を見るだけで、なにもかもが嫌になる。

 けれど、うつむく夜花にふと、綺麗な白いタオルが差し出された。

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