一章⑦
◇◆◇
千歳の案内で、社城家の夜の庭を歩いていく。そこで視界に入ってきた光景に、夜花の頭は盛大に混乱した。
「い、家がある……」
広大な社城の敷地の、その片隅に小さな洋風の家が一軒、ぽつりと建っている。
赤いレンガ風の壁に小洒落た両開きの出窓、濃灰色の屋根に煙突がついた、さながら玩具の家だ。和風の母屋とはまるでミスマッチな。
「よく驚かれるんだよ」
千歳が夜花のほうを振り返り、苦笑する。
「ここ、一応、俺が住んでる離れ。もともとは土蔵だったんだ」
「へえ……」
「夜花。こっち」
千歳は人ひとり分くらいの狭い玄関ポーチに上がると、ドアを開ける。ちりん、と軽やかにドアベルが鳴った。
「ただいま」
家の中に向かって声をかける千歳に、夜花は少し緊張する。
(ちゃんと家の人に挨拶しなきゃ)
きっと、見知らぬ女子高生が夜にいきなりやってきて、千歳の家族も不審に思うだろう。きちんと挨拶をし、世話になる旨を伝え、謝罪と礼を伝えなければ。
しかし、夜花の予想を裏切り、家の奥から出てきたのはひとりの老爺だった。
「おかえり、千歳。……おや」
目を瞬かせる彼に、夜花も「あ」と思わず声を上げる。
「朝の……」
老爺の顔には見覚えがあった。正確には顔というより、鮮やかな翠のループタイの留め具だ。彼は今朝、門の前にいたあの老爺だった。
「坂木さんだったかな。ようこそ」
「は、はい! 夜分にすみません。お邪魔します……!」
夜花が勢いよく頭を下げると、千歳が老爺を手で示しながら紹介をする。
「夜花。このじいさんがこの家の専属使用人、
「よろしくお願いします」
「よろしく、坂木さん」
にこやかに笑みを浮かべる松吉は、千歳の祖父かと思ったが違ったらしい。
けれど、やはり穏やかで優しげな空気をまとう好々爺然とした彼のおかげで、夜花の緊張も多少和らいだ。
「さっそくだけど、松。夜花にシャワーを浴びさせてやりたいんだ。必要なものを用意してもらってもいいか?」
「大丈夫だよ」
「じゃあ、頼む。夜花、身体が冷えきる前に早くシャワーを浴びたほうがいい」
千歳に背中を押され、あれよあれよという間に夜花は社城家の離れの浴室に向かう。
脱衣所でぐっしょり濡れそぼった着物を脱ぎ、浴室内へ。シャワーで身体の汚れや池の水の匂いなどを洗い流し――。
「いや、なにこの怒涛の展開」
さっぱりして旅館に備えつけてあるようなシンプルな浴衣を着た夜花は、そこではっと我に返った。
《今さら気づいたのです? 鈍い小娘なのです》
すると、そばの洗面台で丸まっている壱号から、即座につっこみが入る。
今さらといえば今さらだが、親切にしてくれる千歳の指示に従い、つい、状況に流されるままここまできてしまった。
「なんで私に怪異が視えてるの? なんで私はよそのおうちでシャワーを浴びてるの?」
冷静になって考えてみるとおかしなことばかりだ。夜花は混乱して頭を抱えた。
だが、壱号が《くだらないことを気にしていないで、早く行くのです》と言って、夜花にぐずぐず悩む暇を与えてくれない。
夜花は仕方なく溢れんばかりの疑問を呑みこみ、リビングへと移動する。
「あの……シャワー、ありがとうございました」
夜花が声をかけると、ソファの背もたれに寄りかかってくつろいでいた千歳が振り返った。
「少しはすっきりした?」
「うん。ありがとう。浴衣も用意してもらっちゃって」
「ああ、それは松の仕事だから。濡れた着物も、こっちでなんとかするからほっといていいよ」
「ありがとう。本当に、なにからなにまで」
この二年、ひたすらつっけんどんで、ダメだしばかりしてくる鶴と一緒に暮らしていたので、こういうたまの親切が心に沁みる。
そう、ここが鶴の思惑どおり、社城の男――少年だが――の家だったとしても。
「じゃあ私、そろそろお暇するね。母屋のほうに戻って着替えと貴重品をとってから……」
「ああ、坂木さん。ちょうどよかった」
玄関から声がしたかと思うと、松吉が紙袋を片手にこちらへ近づいてくる。紙袋をわたされ、中を確認すると、夜花が着てきた制服と貴重品が入っていた。
「母屋の使用人の女性に持ってきてもらったのですが、坂木さんので間違いありませんか?」
「あ、はい。ありがとうございます。わざわざ……」
あまりの至れり尽くせりっぷりに、面を食らう。
ひとまず紙袋からスマホを取り出して、ロック画面を見る。ぱっと表示された時刻は、二十時を回っていた。
「夜花。今晩はここに泊まっていったら?」
そう提案した千歳の口調はなにげなく、ひどく軽い。
「え?」
「ああ、それはぼくも思っていました。いくら自転車といっても、これから若い女の子をひとりで帰すのは……」
松吉も心配そうに眉尻を下げ、千歳の提案に同意する。
「いえ、そんな、そこまでお世話になるわけには。バイトのときは二十二時を過ぎて帰宅するのも普通だし、この時間ならまだ大丈夫です」
二人が善意から言ってくれているのはわかるが、さすがに知り合ったばかりの他人の家に泊まり込むのは夜花としても気が咎めた。
夜花の返答に、千歳と松吉は微妙な表情で視線を交わす。
「夜花……あんたさ、今日いきなり怪異が視えるようになったって言ってなかった?」
どことなく言いづらそうに口を開いたのは、千歳だった。
「うん。そうだけど?」
「夜道、本当にひとりで大丈夫?」
「あ」
「ただでさえ視える人間って怪異に目をつけられやすいし、慣れてないなら今夜はあまり出歩かないほうがいいと思うけど。二階に鍵のかかる部屋もあるから、泊まったほうが安全じゃない?」
「ああ……」
千歳のその説明だけで、夜花が己の意思を翻すには十分すぎた。
(怪異が行き交う道をひとりで帰るなんて、無理! 絶対、無理だ!)
逢魔が時をすぎて日が暮れれば、夜は怪異の蔓延る時間。
境ヶ淵は術師の一族たる社城家のお膝元なので、人を襲うような怪異はほぼいないと聞くけれど、怪異そのものが皆無なわけではないし、もし目をつけられれば、ついてくるなんてこともあるかもしれない。おまけにそれが、今の夜花には視えてしまうのだ。
その心の準備はまだできていなかった。
「……やっぱり、泊まらせてください……」
力なくうなだれた夜花に、千歳は「まあ、そのうち慣れるよ」と慰めにもならないような言葉をかけてきたのだった。
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