二章⑦

 年下の男の子が昨日から最大限に気を回し、赤の他人の夜花にここまでしてくれた。確かに、信頼するのには十分すぎる。

「ありがとう、千歳くん」

「たいしたことじゃない。ただし、あんたがまれびとだってこと、今のところは他に気づいてるやつはいないけど、当主には先に俺のほうから報告しておくべきかも」

「当主……」

 社城家の頂点に立ち、その気になれば権力や財力をほしいままにできる人。

 もちろん、遠縁でしかない夜花は会ったことも見かけたこともないが、一筋縄ではいかない相手なのは間違いないだろう。


「私はどうすればいい?」

 首を傾げた夜花に、千歳は軽く肩をすくめる。

「まず、誰に対してもあんたのほうからまれびとだとは明かさなくていい。俺が当主にだけ報告しとくから、措置があるまではほっとけ。さっきも言ったけど、社城家は一枚岩じゃない。まれびとは利用価値があるから、やたら名乗り出たら厄介ごとに巻き込まれる可能性が大なんでね」

 夜花はこっそり苦い顔になる。

 だとすると、今朝、青年に口を滑らせそうになったのはやはりまずかったのだ。危なかった。


「もし気づかれて接触されたら、そのときは堂々としてればいい。当主が睨みを利かせていれば、少なくとも他の連中は下手に手出しできなくなる。基本的には社城家の保護は受けたほうがいいけど、あんたは怖がったり、おもねったりする必要はない」

「わかった」

「あんたの守りにはこのまま壱号をつけとく」

 実感はないが、まれびとが狙われる立場なら、やはり守ってくれる者が要る。千歳は昨日からきっちり夜花を守ってくれていたのだ。

「これからもよろしくね、壱号さん」

 両の手のひらに壱号を載せて笑いかけると、壱号は赤い瞳を瞬かせ、《仕方ないのです》とすまし顔をした。



 当主への報告は早いほうがいい――千歳は屋敷に帰りつくなりそう言って、離れに夜花を置いて母屋に向かった。

(きっと長くかかるよね)

 時刻はちょうど正午前。

 夜花は松吉に緑茶を入れてもらい、軽食にいなり寿司を食べながらリビングでまったりと寛ぐ。扇風機の風が心地いい。冷えた水出しの緑茶の、ほのかな渋みと風味が緊張していた身体に沁みこむようだ。


(生き返る……)

 平日に学校をサボってぼんやり休むのは罪悪感もあるけれど、こうしていると、ちょっと得した気分でもあった。

「このおいなりさん、美味しいですね」

「ああ、それは駅前のお寿司屋さんのいなり寿司でね。ぼくの同級生の店なんだけど。お気に入りなんだ」

 いなり寿司を絶賛する夜花に、松吉もうれしそうに相好を崩す。

 が、そんなのんびりとした空気は、直後、玄関扉が勢いよく開いた音で打ち消された。


「夜花、いるか?」

 千歳の声がする。箸を置き、夜花がリビングから玄関のほうへ顔を出すと、申し訳なさそうに眉尻を下げた千歳が立っている。

「千歳くん、どうしたの?」

「ごめん。急なんだけど……当主が今日の午後、あんたを連れてこいって」

「ま、マジ?」

 夜花が驚き訊き返せば、

「マジ」

 千歳は神妙に首を縦に振った。

 まさかこんなにも急に当主に会うことになるとは思っていなかったので、夜花はしばし、思考停止してしまう。


「え、えっと、私、この制服しか服ないんだけど、このままで大丈夫……? あの、礼儀作法もあんまり自信が」

「いい、いい。大丈夫。気楽にしてな」

「気楽」

 だいぶ無理がある。顔色を悪くした夜花に、千歳は「まあまあ」と笑う。

「現当主は信用できるやつだし、堅苦しい感じでもないから」

「嘘、だって当主さまだよ。社城家の。堅苦しくないって、どんなよ」

「会えばわかる。たぶんひと目見て納得するよ」

「嘘だあ……」


 堅苦しいのが嫌いだなんて、そんないい加減な人物に、名家中の名家である社城の当主が務まるとは思えない。

(でもいったん帰って、よさそうな服をとって帰ってくる時間はないだろうし)

 帰宅するとなると、鶴にも会って状況を説明しなければならない。

 だが、顔を合わせたら間違いなく喧嘩になるし、当主との面会の前に余計なエネルギーは使いたくないので、できれば後回しにしたかった。

(仕方ないか)

 ここは頼っていいと言ってくれた千歳を信じ、思いきって飛び込むしかない。


 その後、千歳も交えて昼のティータイムを再開し、皆で空腹を満たし――夜花と千歳はいよいよ正面玄関から母屋に入る。

 屋敷の内外は、平日の昼間だからか閑散としていた。午前中に通りがかったときはそれなりに人の気配もあったが、おそらく『まれびとと社城家の者の顔合わせ』とやらが午前のうちに終わったからだろう。

 中に入ると、見事な燕尾服の初老の男性が立っていた。ぴしり、と背筋を伸ばして夜花たちを出迎えた彼は、恭しく礼をする。


「お待ち申し上げておりました。千歳さま、坂木さま」

「家令の斗鬼ときだ」

 千歳に紹介され、夜花は「坂木夜花です。よろしくお願いします」と会釈した。と、斗鬼は柔らかく目を細める。

「丁寧なご挨拶、恐れ入ります。さっそくご案内いたします」


 斗鬼の先導で、磨き抜かれた板張りの廊下を歩く。

 使い込まれた木の床は細かな傷も見受けられるが、それがまた味となって古風な屋敷の雰囲気づくりにひと役買っていた。

 もはや、この廊下を雑巾でせっせと磨いていた昨日が嘘のようだ。

 ただ宴会の手伝い要員でしかなかったのに、今日は社城家が丁重に扱うべきまれびととしてここを歩いている。なんとも不思議な感覚だった。

 途中、件の池のある庭も視界に入る。

 もしあの池に落ちていなかったら。そうしたら千歳とも出会わず、きっと夜花はまれびととして見出されていなかった。


 目的の部屋に到着し、足を止めた斗鬼が室内に声をかける。

「失礼いたします。旦那さま、千歳さまと坂木さまをお連れしました」

「あー、入れ」

 応答した声は、けだるげな深みのあるバリトン。夜花の脳裏に、渋い『イケオジ』のイメージが広がる。

 斗鬼の手により襖が引かれ、先に千歳が、夜花も続いてその畳の一室に足を踏み入れた。

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