三章②

「そうかい。でかしたね、夜花。出来損ないだとばかり思っていたけど、やればできるじゃないか。もちろん反対しないよ」

「……なんか、もっと、ないの?」

 鶴がどういう反応をするかなど、わかっていたことだ。孫が家を出ていこうというのに、引き留めたり、理由を聞いたり、行き先が本当に安全な場所なのか確かめたりもしない。

 孫を大切に思うのなら、もっと他に言うべきことがあるはずなのに。


「なんかってなんだい。よかったじゃないか、これで将来安泰。あたしの言うとおりにしておいてよかっただろう。のろまなあんたに代わって、きっかけを作ってやったんだ。感謝してほしいね」

 膝の上で握った手に、力がこもる。手のひらは力を入れすぎて血の気が引き、冷たくすらあるのに、嫌な汗が滲むのを感じた。

(知ってたでしょ、私。おばあちゃんがこういう人だって)

 孫の身を案じるどころか、厄介者を追い払えるとばかりに出ていくことを喜ばれる。二年一緒に暮らしても、ついぞ家族にはなれなかったのだ。


「あんた、千歳、だっけ?」

「ああ、はい」

 祖母はにこにことうれしそうに、どこか得意げに、千歳のほうを見る。

「このどんくさい孫を頼むよ。それにあんたも、序列に入れるよう努力してくれないと困る。うちのたったひとりの孫をやるんだから。それくらいは心得てるだろ?」

「善処します」

 千歳は苦笑を漏らして、うなずいた。

 取ってつけたような、孫を思う祖母らしい言葉。下心の透けるにやけ面から発されたそれがあまりに白々しく、それ以上は聞いていられなかった。


 夜花は黙って勢いよく立ち上がると、自室に向かう。

 積みっぱなしの段ボール箱の脇に置いてあった、やや埃っぽい大きなキャリーケースを取り出して広げ、中に衣類を詰めていく。

 もともと衣類を含め、荷物はそう多くない。いらないものは母と暮らしていたアパートを引き払ったときに処分してしまったし、この二年で夜花は物をあまり増やさなかった。

 箪笥とローテーブルと布団は、この家にあったものだから持ち出す必要はない。

 黙々と荷造りをしていくと、持ち物は通学鞄とキャリーケース、段ボール箱二箱におさまった。


「ぎりぎり歩きでも屋敷まで運べそうだけど、面倒だし、車呼ぶか」

 夜花が荷物をまとめるのを部屋の出入り口で見守っていた千歳が言う。夜花は苦しまぎれの笑みを浮かべ、彼を振り返った。

「お願いしてもいい?」

「任せときな。忘れ物ないか、よく確認しといて」

「うん」

 千歳はポケットからスマホを取り出すと、屋敷に電話をかける。その間、夜花は四畳半の部屋をぐるりと見回した。

 はじめから段ボールもそのままで荷解きもろくにしていなかった部屋は、荷物をまとめたところでたいした変化はない。これまでも今も、ちっとも馴染まないただの『借りた部屋』だ。


「車、すぐ来るって。運ぶの手伝うよ」

 電話を終えた千歳がスマホをポケットにしまって、そばに戻ってくる。

「ありがとう」

 二人で荷物を持てば、何往復もする必要はない。一度ですべての荷物を玄関先に運ぶことができた。

 居間から鶴が顔を出す。

「夜花、しっかりやるんだよ。社城に嫁にいって、あたしに楽させとくれ」

 夜花は返事をしなかった。鶴は最後まで自分のことばかり。だったら、夜花だって自分の気持ちを優先させてもいいはずだ。


「車、着いたみたいだ」

 その、千歳の言葉が合図だった。夜花は千歳に「わかった」と返すと、鶴に向かって一礼する。

「二年間、お世話になりました。さよなら」

 他に言うべきことはない。惜しむ別れもなく、元気で、とか、頑張れ、とか普通の別れ際のやり取りはいっさいしない。

 鶴は素っ気ない夜花の態度に、不満そうに鼻を鳴らした。

「千歳くん、行こ」

「ああ」


 荷物を抱え、二年過ごした家を後にする。

 家出した気分……とは、少し違う。帰るべき家を飛び出すのが家出だけれど、夜花はあの家に帰るべきとは思っていない。

 保護者の家を出て本当によかったのかと、わずかに良識の咎める部分もあるものの、それも祖母への不信感で薄れた。ほかならぬ保護者があの態度では、しかたない。


「夜花。今日の夕飯、なにが食べたい? 蕎麦?」

 車に揺られながら、ぼうっと車窓を流れる景色を眺めていると、ふいに千歳がそんな質問をしてくる。

「なんで蕎麦?」

「引っ越し蕎麦。あーでもあれ、自分で食べるんじゃなく、近所に配るんだったな」

「あの広いお屋敷に近所もなにもなさそう」

「確かに。あの一帯、ほぼ社城の土地だしな。じゃ、夕飯は引っ越し祝いってことで無難に寿司でもとるか」

 千歳が夜花を気遣ってくれているのがわかる。あまり不機嫌そうに振る舞って、彼を困らせるのは夜花の本意ではなかった。

 夜花は、ふ、と無理のない範囲で微笑する。


「お寿司、いいね。食べたい。お昼もおいなりさんだったけど」

「そういや、そうか。寿司がだめなら、ピザをとるか、松にカレーを作らせるくらいしかないな……」

 眉間にしわを寄せ、難しい表情で考え込む千歳を見て、今度こそ夜花は噴き出した。

 どうやら、千歳の家での食事には改善が必要そうである。これまでの人生、母や祖母との二人暮らしで家事とは無縁ではいられなかった夜花だ。上手、といえるほどではないものの、料理の心得はそれなりにある。

(明日から、家事もちゃんとしよう。さすがに松吉さんに任せきりにするわけにいかないわ)

 新しい生活に、ほんの少しだけ期待して、夜花はまた車窓の景色に視線を戻した。

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