三章⑤

 車に乗り込んで、三十分ほど。夜花たちは何事もなく屋敷に到着し、買った荷物を持って家に帰る。

「ただいまー」

「ただいま帰りました!」

「おかえり、二人とも」

 にこやかな松吉に迎えられ、三人で協力して手早く買ってきたものを整理すると、夜花はさっそく台所に立った。


「よし! やるぞ!」

 エプロンをかけ、腕まくりをして準備は万端。

 今晩は手始めに簡単なものから、夏野菜と豚肉のどんぶりを作る予定で材料も買い揃えた。いつもはレトルトご飯だというので、米もしっかり買ってきてある。

「最初はお米を炊くところから……」

 と、夜花は台所を見回して固まった。


(炊飯器がない!)

 そんなまさかと整頓された台所をあちこち確認する。

 冷蔵庫、電子レンジ、トースター、食洗機……だいたい必要な調理家電は揃っているのに、炊飯器だけがどこを見てもない。

 背中に冷たい汗が流れた。

 米だけあっても炊飯器がなければ、ご飯にはありつけない。それどころか、どんぶりにしようというのに、白米がなくてどうする。


「夜花、どうかした?」

 異変を察知したのか、千歳が台所に顔を出した。

「千歳くん、大変だよ……炊飯器がない」

「え、嘘」

 やや焦った表情になり、先ほどの夜花と同じように辺りを見回した千歳は、あからさまに「しまった」という顔になる。

「本当だ……ごめん、夜花。俺の確認不足だった」

「ううん。こっちこそ、訊かなかったし」

 二人で同時にため息を落とす。けれど、夜花はそこであることに思い当たった。


「あ、そうだ。土鍋ならあるかな?」

「土鍋? ああ、前に松と鍋をしたときに使った覚えがあるから、あると思う」

 鍋を収納している戸棚を開け、中を確認すると、奥のほうに大きめの土鍋をみつけることができた。

「あった! よかったぁ」

 夜花は、ほっと胸を撫で下ろした。これがあれば、炊飯器がなくとも美味しいご飯が炊ける。

「土鍋で米を炊くのはいいけど、できるか?」

「うん、まあ。一応、叩きこまれてるからね。……おばあちゃんに」


 おばあちゃん、と口にしただけで、複雑な思いが胸の内をよぎる。

 二年前、同居を始めたばかりのときに「鍋で米も炊けないのかい」「だらしない」とさんざんに言われながら、鍋で米を炊く手順を仕込まれた。

 祖母の暴言に四六時中さらされるのにまだ慣れておらず、たいそう傷ついたし、腹が立ったものだ。鍋で米が炊けなくても、炊飯器が使えれば十分だろうと。

 それが、こんなところで役に立つとは思わなかった。

「じゃ、すぐに準備するから、リビングで待ってて」

 つい気分が沈みそうになったのを振り払い、夜花は千歳に笑いかける。千歳は微妙な面持ちをしていたものの、うなずいて、台所から出ていった。


 その後はいたってつつがなく、食事の準備を進めることができた。

 にんにくと醤油で味つけした茄子やピーマンなどの夏野菜と豚肉を炊きたての白米の上にのせ、半熟たまごとミニトマトをトッピングしたどんぶりは、夏にぴったりだ。

 千歳にも松吉にも大好評だった。


「美味しかったよ、ごちそうさま」

 食事が済み、片付けは任せてほしいと申し出てきた松吉に任せて、夜花は千歳とともにリビングでまったりと休む。

「おそまつさまでした」

 律儀にあらたまって感想を述べる千歳に、笑いながら応える。

「俺と松だけだったら絶対に食卓に並ばないメニューだったから、新鮮だった」

「大げさだよ、簡単だもん。……どうしたの?」

 夜花は妙に真剣な表情をしている千歳に気づき、首を傾げた。千歳は言いにくそうに視線をさまよわせる。


「大きなお世話だっていうのは、わかってるんだけど」

「うん」

「夜花。……ばあちゃんのこと、本当にあのままでいいのか?」

「…………」


 はい、とも、いいえ、とも咄嗟には答えられない。

 千歳の指摘に、不思議と腹は立たなかった。夜花の様子をそばで見ていれば、彼には一目瞭然だっただろう。

 買い物のとき、なにを買ったら、なにを作ったら鶴が喜ぶか、あの料理は褒められたな、とか、あの料理は下手くそだと言われて一から教わったな、とかつい思い出してしまったし、土鍋でご飯を炊いたときもそう。

 祖母との二年間の生活を思い出しては、複雑な――いたたまれないような、後ろめたいような、息苦しさを感じていた。

 いつの間にか、鶴との暮らしが当たり前になっていた。きっと馴染めないと思っていたのに。


「すぐには、わだかまりを捨てるのは難しいかもしれない。でも、夜花の気持ちが落ち着いたら、もう一度、話してみたら」

「……うん」

 このままではいけないのは、自分でよくわかっている。

 もし昨日、同じことを言われていたのなら、きっと激昂していた。しかし現状、夜花の胸の内は凪いでいる。明日や明後日は無理でも、もうしばらく経ったら今度こそ、祖母と向き合うべきかもしれない。


「ああ、やだやだ。この姿だとつい、説教くさくなっちゃってだめだ」

 ふいに、千歳が重苦しい空気を振り払うように、言いながらソファにもたれかかる。

「もちろん、夜花がもう絶対にばあちゃんと会いたくないっていうなら、そのつもりで協力するよ」

「ううん。私も、このままじゃいけないって思ってたから」

「ならいいけど」


 夜花の答えに、千歳は安堵の笑みを浮かべた。と、そこで「あ、そうだ」と千歳はズボンのポケットをまさぐる。

 取り出されたのは、小さなストラップ。

「手、出して。今のうちにわたしておく」

 夜花が差し出した手に、ストラップが置かれる。

 手のひらにおさまるほどの大きさで、紐が赤く、朱色の鳥居の飾りと小さな鈴がついている。神社などに売っていそうである。


「これは……?」

「まあ、念のための小道具ってところかな。鳥居は異境と人境を隔てる境界。界と界を繋ぐ門だ。いざというとき、なにかと役に立つ」

「……ストラップでいいの?」

 紐を摘まんで少し揺らせば、鈴がちりん、とかわいらしく鳴った。とても、そんな力を秘めた特別なものには見えない。

 千歳がむっと唇を尖らせる。


「ただのストラップじゃない。俺、この姿のときは能力も元に戻るから、ちゃんと今日を見計らって力を付与しておいたんだぞ」

「へえ…… なんだかよくわからないけど、ありがとう。これを持ち歩けばいいの?」

「そう。使い方は壱号がわかってるから、任せておけばいい」

 自分の名前に反応し、夜花の頭上で眠っていた壱号が目を開ける。このうさぎは、どうやら今までずっと寝ていたらしい。


《なにか用なのです?》

「夜花に鳥居をひとつ預けておいたから、非常時はお前が使えって話」

 千歳は、眠たそうにする壱号を呆れた様子で見遣る。

《わかったのです》

「おいおい…… 。大丈夫か」

《小童が、生意気なのです。なめるな、なのです》

 ふす、ふす、と壱号は鼻を鳴らした。

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