第17話 心
綾乃は例の嫌な夢を見た。
ただ見たけど顔が分かって来た。追って来たのは道源のお父さんとお母さんだった。
そして、おいでおいでしてたのは姉の真世、傍に居たのは興備のお父さんとお母さん、そう確信した。
四歳のときに誘拐された記憶が綾乃の何処かに残されていて、それが夢に現れたんだろうと思った。
だから、もうその夢を怖いと思わなくなっていた。
顔を洗って一階に下りる。
何かドキドキする。
「こっちおいでー」
声のする方を見ると真世だ。手招きしてる。
「ご飯出来てるよー。一緒に食べよー」明るい声。
「おはよー」お父さんもお母さんも笑顔で迎えてくれた。
そう言えば綾乃は朝ご飯を家族三人で食べたことが無かった。
学校へ通ってた頃は綾乃が一番先、ひとりで寂しく食べていたのを思い出した。
夜だってひとり。
お父さんとお母さんに山脇おじさんは事務室の中でお酒を飲みわいわい騒ぎながら楽しそうだった。
綾乃は家政婦の天塩さんの作った料理をひとり食べながら、学校での出来事を天塩さんに話しお手紙を渡した。テストだってそうだった。……寂しかった。
綾乃の頬を涙が伝った。
「あら、綾乃ちゃんどうした? 何か嫌だった?」
お母さんが綾乃の座ってる隣にしゃがみこんで顔を覗き込む。そして手をそっと握ってくれた。
「ううん、今までこんな風に朝ごはん食べたこと無いの。いつもひとりで……」
言葉が詰まってそれ以上話せなくなった。しゃくり上げて、泣いた。
「ごめんなさい……嬉しくて……ごめんなさい」綾乃は頭を下げた。
「良いさ。寂しかったんだなぁ。可愛そうに」そう言うお父さんの目にも光るものがあった。
「こら、めそめそすんな! 一緒に食べよう。これからは寂しい思いなんか絶対にさせないから、私が絶対させないから……ね、紗世……」真世が力強く言ってくれた。ただ最後の名前だけは微かに聞こえる程度に……。
気持を切り替えて「頂きまーす」精一杯元気に言った。無理矢理笑顔も作った。
洋食だった。
綾乃がフランスパンを長いまま頭からガブリとかぶりついたら、みんなびっくりした顔を向ける。
「えっ、どうしたの?」
「フランスパンは小さくちぎって食べようね」真世が笑いながら言う。
「えっ、あっ、あっそうですよね。私ったら緊張して、何やってんのかしら。いつもはちゃんとちぎってるんですよ。ホントです! 信じて下さい!」綾乃は泣きそうなくらい恥ずかしかった。
「ははは、誰もそんな風には思ってないよ。それに綾乃の事は信じてる。嘘じゃない、家族の一員だから。な」
お父さんがふたりに目を走らせる。
ふたりとも頭を一杯縦に振ってる。
「ふふふ、綾乃さんって、子供の頃の紗世と変わらないなぁ」真世がからかうように言った。
「えっ、私そんな小さい時からおっちょこちょい?」
「えぇ、間違いなくおっちょこちょい。ふふふ」真世は笑う。
――そっかぁ、やっぱり私はここの家族だったんだろうなぁ。……
「あのー、食べながらで良いんですけど、……」綾乃は言い出したけど、言って良いのか迷って俯いたままでいた。
お父さんもお母さんも、それに姉の真世もじっと綾乃が何を言いだすのか待っている。強く視線を感じる。
「あのー、道源の両親を誘拐の罪で訴えるんでしょうか?」
さっとダイニングの空気が変わった。
沈黙が続いた。
……
綾乃の心臓が耐えられなくなって苦しくなってきた。
「いや、そうはしない積りだ。綾乃を苦しめる様な真似はお父さんには出来ない。お母さんはどうだ?」
「えぇ、おんなじよ。真世だってそうでしょう?」
「もちろん、紗世が訴えるって言わない限り、しないわよ。安心して」
綾乃は嬉しくて、嬉しさが込み上げてきてまた涙を零した。
「済みません。私、ここにずっと居たい。でも、道源のお母さんのことが心配。会いたい」
綾乃は正直な気持ちを言った。
「良いわよ。綾乃がそう思うなら思うままにしなさい。反対はしないわよ」お母さんがそう言ってくれた。
「あぁそうだな。……そう言えば綾乃は就職先決まったんだよな」お父さんが突然話題を変えた。
「えっ、えぇ決まりました」
「何て言う会社? 五月から行くって言ってたよな?」
「はい、花華屋(はなはなや)って言うお花屋さんです」
綾乃がそう答えた途端、三人が大きな声で笑い出した。
「わっはっはっは……」
訳が分からずキョトンとしていると「その会社何処にあるの?」笑顔のお母さんに訊かれた。
「えーっと、本社は中央区で、店は全国にあって、お花は札幌の野々別って……あれっ、この近くで作ってるみたいです」
「ほー、で、社長さんは何て言う人?」今度は笑顔のお父さんが言った。
綾乃は会社の情報を写真に撮っていたのでそれを見る。
「えっと、社長さんが興備京弥さんで、専務さんが、興備……嵩子さん……って、お父さんとお母さん?」
きっと綾乃の目はまん丸になってたと思う。それほどびっくりした。
「ふふふ、そうよ。紗世が働こうとしてた会社は家なの。これは偶然だったのよ。私も最近まで知らなかったもん」真世が笑顔で言った。
「じゃ、じゃ、じゃ私はここで働くんですか?」
「そうよ。真世先輩の厳しい指導を受けてね」お母さんが笑みを浮かべながら言う。
「あ、あ、あの、私、どうしたら良いでしょう?」
「どうって? 普通にしてたら良いんじゃないの?」と、真世。
「えーっ! ありがとうございます」綾乃は立ち上がって身体をふたつに折って頭を下げた。
「あら、どうしたの? そんな改まって。紗世って言う事で良いわってことかしら?」と、お母さん。
「……」
綾乃はどう言って良いのか分からずただお母さんの顔をじっと見続けた。
「ふふふ、綾乃ちゃんちょっと無理言っちゃったかな。今日は真世に案内してもらって、花畑とか、お店とか見て回ってきたらどうかしら?」お母さんがそう言ってくれた。
「はい」頭の中がまたパンクしそうだった。
コーヒーを啜って、深呼吸して、少し気持を落ち着かせる。
突然、何の前触れもなく綾乃の頭の中に四歳の自分が大人にさらわれる瞬間が浮かんできた。
「あーっ! 思い出した。あの時、抱きあげられて口を黒い手袋で押さえられて、おねーちゃーん! って叫んで、大きな車に乗せられて……何故か眠くなって、……目が覚めたらソファに寝てて、男の人がふたりに女のひとがひとりいた。男の人がお父さんだよって言って、女の人がお母さんだよって言った。私怖くて、怖くて、お母さーん! って叫んだけどいなかった。何度も、何度も、何度も、……お母さーんって……」
綾乃はそこまで一気に喋った。そこで言葉が詰まり涙が止まらなくなって、その時の気持ちを思い出した。
「いやぁーーぁーーっ!」
頭が真っ白になって分からなくなって……。
……
目が覚めた。
「えっ、全部夢? 誘拐され、山の中逃げて、花屋の社長さんの家に連れて来られて……?」
綾乃が周りを見ると誰もいない部屋。
「あれっ、ここって自分の部屋? 興備さんの家?」分からなかった。
――全部夢なら、がっかりだわぁ。……
「どう、目覚めた?」
いきなり話しかけられドキッとしたが、声の方を見ると真世がすぐ傍に座っていた。
「あっ、お姉ちゃんだ。夢じゃなかったんだね。私、興備の家にいるんだよね!」綾乃は助けを求めるように真世にすがりついて言った。
「何言ってんの、当り前じゃない。あんたは興備紗世なんだから。私の大事な妹なんだからね」
真世はそう言って抱きしめてくれた。
――良かったぁ、私にお姉ちゃんがいたんだぁ。……
嬉しくて、また泣いた。肩を揺らし、声を出して泣いた。姉にしがみついた。
「お姉ちゃん、もう、私を離さないでね」
姉も泣いてくれた。
お父さんとお母さんが来て、話を聞いていたようで涙を流している。
「綾乃、いや、紗世、思い出したんだねあの時の事を」お父さんが紗世をじっと見て言った。
「……はい、思い出しました。怖かった思い出」
「そう、ひどく怖くて辛い思い出だから、これからも時々思い出して泣きたくなることも有るかも知れないけど、紗世はひとりじゃないからね。私達がいる。姉の真世もいる。だから、そんな時は声をかけて、一緒に苦しむからね。ひとりで抱えないでね」お母さんが紗世の頭を撫でながら言ってくれた。
紗世は大きく頷いた。
「紗世、お腹空いたでしょう。もう三時よ。何食べたい?」真世が言う。
「んー、お腹がすいたか良く分かんないけど、何か甘いものを口にしたいかも」
「あっ、じゃぁケーキはどう?」
「あっ食べたい」
「どんな奴が好き?」
「苺か栗がのってるやつ」何も考えていなかったのに紗世の口からその名前がポンと出た。
――もしかして、綾乃が好きでお母さんが良く買ってくれてたやつなのかなぁ。……
「分かったリビングで待ってて買ってくるから」そう言って真世は部屋を飛び出して行った。
「じゃコーヒーでも飲んで待ってるか」
お父さんが言ってみんなでリビングへ向かった。
……
「ただいまー」真世が帰ってきた。
「お邪魔します」紗世の知らない男性が真世の後から入って来た。
紗世がちょこっと頭を下げると「こちらが、紗世さん?」と真世に聞いてる。
「始めまして、由利大樹(ゆり・たいき)です」紗世に頭を下げた。
「ふふふ、紗世に会わせようと思って連れて来ちゃった。私の彼氏」
真世が嬉しそうに言った。
「あぁそうですか。紗世です。始めまして」
この時、紗世は何か感じるものがあったけど口には出さずに飲み込んで笑顔で挨拶した。
テーブルに美味しそうなケーキが沢山並べられ「紗世、好きな苺でも栗のでも食べな」お母さんが取り皿とフォークを渡してくれた。
「はい、先ずは苺で……」紗世は周りも見ずにパクリと食いついた。
真世は彼氏と話しながらひとつ小皿に乗せ渡していた。
お母さんもお父さんも笑顔で食べてる。
お父さんはビールを持って来てケーキをつまみにしようとしている。
「えーーっ、ケーキをビールのつまみにするの?」紗世は思わず訊いた。
「へへへ、お父さんは何でもつまみになるんだ。だから腹が……」そう言ってお腹を叩いて見せる。
これが家族団らんなんだなぁ……紗世はまた道源の家の事を思い浮かべた。
じわっと涙が出てくる。
それを見つけた真世が「こらこら、また紗世ったらしんみり思い出して……もう」
紗世は、真世が怒っているのかと思ったけど、顔を見たら寂しげにしているのに気が付いた。
「あっごめん。つい……」紗世は無理に笑って頭を掻いた。
「紗世さんって誘拐されてた?」由利が言った言葉が紗世の胸にグサッと突き刺さった。これから一生そう言われ続けるのかと思ったら頭から血の気が引いて行く気がした。
「バカッ! 何言ってんの! 考えて!」真世が怒った。ほんとうに怒ってる。
紗世の気持ちを代弁してくれているんだと思うんだけど、でもここはなんとか治めなくっちゃと必死に考えても上手い言葉が見つからず、「お姉ちゃん、大丈夫よ。私、気にしないから」取り敢えず言った。そして真世を見ていると尖った表情が少し和らいでくれたようだった。
「由利さんってお仕事何してるんですか?」紗世は話題を変えようと思い由利に質問を投げかけた。
「えぇ、倉庫の集配する荷物の整理とかかな」
「ここの店の倉庫ですか?」
「いや、知り合いがやってる倉庫だよ」
「宅配とか多いから大変でしょうね」紗世は由利に探りを入れようと思い色々と質問を考えた。
「そうだね。結構忙しい」
「お姉さんと付き合ってるんだったらお花とか好きなんでしょう?」
由利の顔に少しずつ角ができてきた。
「えぇ、これから咲く桜とか鈴蘭とかライラックなんか好きだなぁ」
「アンスリウム、アガパンサスとかトケイソウなんてどうですか?」紗世はちょっと意地悪をした。
「知らない花ですね」と由利。見るからに嫌そうな顔をする。
「紗世、冷やかさないで、それって花言葉が、恋に悶えるとか恋の訪れとか聖なる愛とかじゃなかった?」
真世はさすがに知っていた。
「へへへ、ごめん。ちょっとからかった」紗世はそう言ったが、花が好きで花屋の娘と付き合ってたら花言葉を当然意識するはず。この男なんか怪しい……。
――それとも、お姉ちゃんを取られてしまうという自分のやきもちなのかしら? ……
紗世は思いが錯綜し、その後は口を噤んで会話を聴く側に回った。
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