第2話 山の小屋
綾乃の耳に後部座席の女のひとが「何です、あんたたち」と叫ぶ声が聞こえた。
「うっせー、刺されてぇのか?」後部座席のドアを開けた男が怒鳴っている。
綾乃は女のひとが男にどうして脅されているのか分からなかった。
―― 一体どうなってるの? ……
「きゃっ!」女のひとの悲鳴だ。
――どうしたんだろう? ……
女のひとの気配が無くなってドアが閉められた。前の車に女のひとが無理矢理連れて行かれたようだ。
「ついて来い、来なきゃこの女には死んでもらう」運転席側に来た男だ。
「わかった」男の声が答えた。
「どうしたんです?」綾乃は訊いてみた。
「いや、誘拐された」
「えっ私じゃなくて女のひとがですか?」
「あぁどうなってるんだ? ……」
車が動き出した。
しばらく山道を上って下って縫うように走っているようだった。そしてまた止まった。
今度は綾乃の乗ってた車のエンジンが切られた。
後部座席のドアが開いて運転していた男の声が「足下悪いからゆっくり歩いて」
そう言って腕を掴まれ車から降ろされて支えられながら歩く。何度か転びそうになったけど男のひとに助けられる。
木のドアの開く音がして「中へ入れ」
命じられるままに入る。
男のひとが目隠しを外してくれた。
山小屋なのだろうかそこそこ広い。土間が細長くあって奥の方に台所があるようだ。ガラス戸で部屋と土間が仕切られている。
二十畳はあるだろう大きな板の間がひとつだけある。
入口から奥へ向かった突き当りにドアがあってそこにトイレとか風呂場があるようだ。
部屋の真ん中にストーブが置かれ、薪が傍に何本か積まれていた。
「もう、これは用がない。俺らの計画は狂っちまった」男のひとが帽子を脱いで頭を掻く。
「そうねぇ、この人たち何考えてるんだろう?」女のひとも帽子を脱ぎながら不満一杯な感じで答える。
そしてふたりともサングラスとマスクを外した。現れた顔を見ると二人は中年のカップル。
綾乃と誘拐犯ふたりは二人組とストーブを挟んで反対側の奥の方に固まる。
「ご夫婦ですか?」綾乃が訊いてみる。
ふたりは黙って頷いた。
男が寄ってきて「おい、手出せ」
男に言われ三人とも手を出し縛られる。
それから「座って足伸ばせ」
夫婦と綾乃は足首のところを縛られた。
そして綾乃は胸倉を掴まれ「おい、死にたくなかったらスマホ出せ」
顔のすぐ傍で怒鳴られ臭い息を吹きかけられた。
肩から下げていたバッグに縛られている手を入れスマホを探すが無い。
――あれー、無いわ? ……
「彼女のスマホは私が持ってるわ」
妻がそう言って綾乃のスマホを取り出した。
男はそれを奪うように取って綾乃に差し出す。
「そしたら、家に電話しな」
男はナイフを綾乃の頬に当てたまま言う。
――またナイフだ。怖いなぁ。……
綾乃は黙って震える手でアドレス帳を開いて家を探すが、目の前でナイフがちらちらしてなかなか指が思うように動かずもたもたしてると「何やってんだっ! 殺されたいのかっ!」男に脅されると余計指が震える。
何とか見つけて掛ける。
「はい、道源でございます」天塩さんの優しい声だ。
綾乃が喋ろうとしたらいきなりスマホを取上げられ「娘を誘拐した五千万円用意しろ! また電話する」
男はそれだけ言って切った。
「今の家政婦さんですけど……」綾乃は小声で言った。
「だから何よ。旦那に伝えるべや!」男に睨みつけられナイフで頬を叩かれる。
怖くて泣きそうだった。
「乱暴は止めてください。何でも言う事は聞きますから」夫が綾乃を庇ってくれた。
「ちぇっ!」と男。
「あのー……」今度は妻が男に声をかける。
ギロッとした目で男が妻を睨む。「何よ!」
「……あのートイレ……」怯えた目で妻が言った。「私も」綾乃も続いた。
大してしたくは無かったけど、男から離れたかったし妻と一緒にいる方が安心できると思って声を出した。
「くっそー……」聞こえないくらいの声で何かぶつぶつと言いながらふたりの足の紐を解く。
「手は?」妻が言う。
「それでしな。出来ないって言うなら俺がパンツ下げてやるか?」にやにやしながら男が言った。
「い、いえ」妻はさっとトイレに立つ。綾乃も慌てて追った。
……
綾乃がトイレから戻るとき、ちらっと台所の大きなテーブルの上に色々な包丁が並んでいるのが目に入った。
そーっと台所に入って手を洗う振りをしながら小さめの包丁を握ってベルトに挟んでTシャツで隠す。
男らは顔を寄せあって何やら喋って、時折笑ってる。
突然、「女、何やってんだっ!」男が怒鳴って綾乃の方へ近づく。
「手を、手を洗って……」
彩乃が言ってるのに背中を押されて部屋に入る段差に足をぶつけて部屋の中へ滑り込むように転んだ。
「痛っ」強かに膝を打った。皮が擦り剝け血が滲む。
妻が「どれどれ」不自由な体をくねらせながら近づいてきて、彩乃の膝を見て「酷い事するわねぇ。大丈夫?」
心配そうに彩乃を見上げる。
彩乃は頷いて男に気付かれぬようにさっと包丁を渡す。
直後、男に足を縛られた。危なく見つかるとこだった。
しばらくして男がスマホを手にした。
「おい、金は出来たか?」
相手が何か喋ってるんだろう少し間があって、男がスマホを持って綾乃の傍に来て「何か喋れ」
「お母さん? 助けてっ!」叫んだ途端に男が電話を持ったまま離れてしまった。
「明日、三時半に奈犬振の吊り橋まで持って来い」男は言うだけ言って切った。
綾乃は、村の吊り橋と言えばあの見晴らしの良い奈犬振川に架かる大吊橋のことだと思った。
――そんな所でお金を? ……すぐに捕まっちゃいそうな気がするけどな。……
「お宅らこの娘を誘拐する積りだったんですか?」夫が訊いた。
「あぁそう思って出てくるのを待つか、押入るか考えてたら、こいつが出てきたんで後を尾けたらお前らが先に誘拐しやがって、だから後を追ったんだ。お前らこそどうしてこの女を誘拐したんだ?」
少し年嵩の男が言った。
「こっちはちょっと事情があって……」夫はぼかした。
――えっ、事情があるの? 誘拐する事情って? お金じゃないみたいだし……殺すのが目的だったりして。……
「ふーん、事情ね。まぁどうでもいいけど、幾ら要求する積りだったのよ」男が訊いた。
「いえ、考えて無かった」夫は間を空けず答えた。
――夫は迷いなく言ってるから本当なんだろうけど……分かんないなぁ。……
「バカか、誘拐しといて身代金考えてなかったって、猥褻目的か、人身売買か?」
「まぁそんなところで……」夫が答えた。
――えっ、そうなんだ。だから私を殺さずお金も奪わず、私の心臓とか肝臓とかを売る? ……やっぱり生きては帰れないのかなぁ……どうしよう……怖い……お母さん。……
「お前ら俺らより悪だな……ふふふ。でもよ、ナイフも銃も持たずに誘拐だなんて頭おかしいんじゃないか?」
綾乃は「えっ」って思った。
――頬に冷たいもの当てられたのにナイフじゃない? ……
思わず妻の顔を見た。
妻は何も言わずポケットから鋼の定規をだして見せて「ふふふ」と笑った。
綾乃は驚いて言葉が出なかった。
……
夜、綾乃は一番壁に近いところに隣に妻、そして夫の順に並んで寝ていた。
ふと綾乃が目覚めると男らの話し声が聞こえた。
「……俺が潜るからおまえはバッグを担いで崖を登る。……運転もおまえで良いな……」
「やつらはどうする。計画通り……か?」
「おう顔を見られてるからな。だが、……もったいないからやる前にやるか?」
「どっちがどっちだ……」
「決まりだな。へへっ、こっちが良ければ俺の次……」
「ちぇっ、しゃーないな、へへへ」
……
途切れ途切れにしか聞こえないので何の話かはさっぱりだが、殺されそうだなぁ。
綾乃がうとうとしていると、突然、襟を掴まれて引きずられる。はっと気付いて「止めて! 何すんの!」叫んで引きずられまいとして足をばたつかせる。
「きゃーーーっ!」恐怖で悲鳴を上げる。
「ちょっと可愛がってやるだけだ。殺さないから心配すんな。へへへ」
酒臭い息が顔にかかって気持ち悪い。
片方の男は酔っているのか寝ている。
「止めろ! その娘に手を出すな!」
夫の方が目覚めて叫び男のとこまでゴロゴロ転がってきて縛られてる両足で蹴った。
「うわっ」叫んで男が転がる。
「何しやがる!」怒鳴って立ち上がり夫に蹴りを入れ、呻く夫にナイフを向ける。
夫はゴロゴロ転がり逃げる。
「コノヤロー逃げんなっ!」
お父さんが壁に追詰められた。
「止めてーっ!」
妻が縛られたまま立ち上がってぴょんぴょん跳ねて男に体当たりするが、外れて寝ていた男の上に倒れる。
「痛てぇ!」男が飛び起きて周りを見回し、相棒が女に悪さをしようとしているのに気が付いて「お前、何してんだ! バカヤロー!」相棒を殴りつける。
そして「事を起す前に騒ぐんじゃねぇ」怒鳴り付けた。
綾乃と夫婦はその男に蹴飛ばされ寝ていた場所に転がされた。
「大丈夫?」妻の優しそうな目を見たら涙が溢れちゃった。妻の目にも光るものが……。
夫の方は目を三角にして男らを睨みつけている。
「怖かった」綾乃はやっとそれだけ言えた。自分の声が震えているのに気付いてまた泣いてしまった。
「綾乃ちゃん大丈夫か?」
夫に訊かれ泣きながら頷いた。
その後二人組はぼそぼそ喋ってそのうち寝たようだった。
若い方が年上の男を「兄貴」と呼び兄貴は相手を「せいじ」と呼んでいた。
次の日の昼過ぎまで口に出来たのは水と三人でカップメンひとつ、夫婦は一口ずつ食べ「あとはあんた食べな」と押し付けてくる。
頭を下げて綾乃は食べた。……どう言う夫婦なんだろう。
綾乃を売り飛ばそうとしている悪い人間だから怖いと思うが、二人組の男はナイフを持ってていつ殺されるか分からないから一層怖い。泣く以外なにもできない。
――なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないの? お母さん、助けに来てぇ! ……
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