第10話 野獣

 三人は道のない森を進んだ。

「登山道はきっとあの人達知ってるだろうから避けた方が良いわよね」お母さんが言った。

「あぁそうだな。だから周りの景色に気を付けて見ててくれな、またぐるぐる回っちゃうかもしれないからな」

今は太陽が見えてるから方向は分かるけど、曇ったりして月も見えなくなったら本当に方向は分からなくなる。まして雨が降ったりしたら遠くが見えないから堂々巡りする可能性は高くなる。

「綾乃ちゃん足大丈夫?」お母さんが気遣ってくれる。

「えぇお母さんは痛くないです? 杖になるような枝ないかさっきから見てるんですけどなかなか無いんですよねぇ」綾乃が答える。

「あらー嬉しいわねぇ、でも私より自分の事に気を付けてね。ありがとうね」

微笑んでくれるお母さんを見ていると、自分が誘拐されてるんだという事が信じられなくなる。

――なんか両親と冒険でもしているような気になるから不思議だわぁ。……

 晴れてるけど景色はさっぱり変わらない、下り斜面を歩く時間が長い感じがするから町に近づいてはいると思うけど、ひと山超えたと思ってもまた山がある感じだ、永遠に続く気がしてきた。

三人ともスマホのバッテリーも殆ど無くなって無口で歩いてる時間が長くなる。

何時間か歩いているとゴッドが座り込んでしまった。

「ゴッドどうしたの? 疲れた?」綾乃は沢の水を手ですくって鼻先へ持ってゆく。

ぺろぺろと舐めている。

「ちょっと休もう」その様子を見ていたお父さんが言ってくれた。

お母さんが綾乃の隣に座って大きくため息をついた。

「疲れましたね」

綾乃が言うと「そうねぇ、普段こんなに歩くこと無いものね。わんちゃんも疲れたわよねぇ」

お母さんがゴッドの頭を撫でて言った。

お父さんは大の字になって目を閉じている。

「明日には町へ出れるだろう」目を開け空を見詰めたままお父さんが言った。

綾乃もそう信じたい。小屋から札幌まで二十キロと言ってたから、町までなら半分も無いはず。

問題は方向が合っているかどうかなんだけど……。

「さ、行こうか、あと二時間もしないうちに暗くなってくるだろうから、その前に寝る場所を探して今夜はそこに落ち着こう」

「えぇそうね。無理してもね」お母さんが綾乃の手を引いて立たせてくれた。

「ゴッド行くよ」

綾乃の声でゴッドも立ち上がった。

……

 辺りが薄暗い感じになってきたころ、

「あぁあの土手の下なら雨も当たらなそうだし寝るには良いんじゃないか?」

お父さんが嬉しそうな顔をして指をさす。

綾乃はもう疲れてて早く座りたかったので大きく頭を上下に振った。

三人で小枝や葉っぱを集めて火をつける。

残り少なくなったおやつを分けて「これが最後の食糧だから」お母さんがそう言って綾乃にくれた。

どう見ても綾乃に沢山くれて自分らは綾乃の半分も無い。

まるで親が小さい子に少ない食べ物を分けてるみたいだ。

綾乃は言葉には出さずお母さんを見詰めた。

「良いのよ。あなたは若いから沢山食べないとね」

――本当のお母さんみたいだ。なんか泣きそう。……

何も言ってないのに綾乃の思いが伝わってる。

「今夜はお月様が綺麗ねぇ」お母さんが呟いた。

見上げるとほぼ真正面に赤い大きな月が浮いてる。

「あっ春分からまだ半月くらいしか経ってないから、月は東寄りに上る。沢は南に流れてるから沢より右方向に行かないと町に着かないんじゃないかな?」綾乃は村と札幌の関係を思い浮かべてそう言った。

お父さんはスマホで地図を見ているようだ。

「いや、大丈夫だ。この沢間も無く右へ曲がって行くんだよ。方向は南西かな、だから沢を下ってて良いんじゃないか?」

そう言ってスマホをお母さんと綾乃に見せてくれた。

縮尺を変えながら地図を見てると、綾乃にも確かにそう見えた。

「そうですね。済みません、余計な心配しちゃった」

「いやいや、そのくらい気を付けてないと迷っちゃうからね」

いきなりゴッドが低い唸り声を上げて立ち上がり沢の下の方を向く。

「どうしたゴッド、何か来た?」

綾乃の頭に『熊』と言う文字が浮かんだ。

ゴッドは唸り続ける。

「おい、ふたりとも何か分からんが、木の枝先に火をつけて」

お父さんも熊を思い浮かべたのかもしれない。

茂みからガサガサと音が聞こえる。

三人とも焚火の反対側に身を寄せて枝に火をつける。

黒く大きな動物が月に照らされて姿を見せた。

「熊だ!」お父さんが叫んだ。

綾乃が思わず逃げようとして振向くと、お母さんが綾乃の腕を確り掴んで「ダメ、背を見せて逃げたら襲われる」

綾乃も村にいた時は時々熊が出て村人が追っ払ったとか駆除したとか話を聞くことはあったが、熊を目の前にしたのは初めてだった。

7、 八メートルまで近づいたところで熊が止まった。ゴッドは唸り声を上げ続けている。

やはり火は怖いのだろうか、近づいてこない。

「お前たちここ動くな」お父さんが手に火のついた枝を持って焚火の前に出る。

枝で円を描くようにして熊に一歩近づいた。

「ガァァッ!」大きな口を開けて牙を剝いて吠えた。

そして立ち上がる。

見上げる様な大きさにお父さんが後ずさりする。

そして熊が突進してきた。

ゴッドが吠えて熊に飛びかかる。

熊の注意がゴッドに向いた瞬間を狙ってお父さんが火で熊の鼻先を叩く、一瞬熊が怯んで鼻先を前足で擦るような仕草をしてお父さんの方へ近づく。

ゴッドが激しく吠えながら熊の周りを走り、後ろ脚に噛みついた。

熊は身体を捩り前足でゴッドを叩き落す。

ゴッドの首の近くが抉れて血が流れだした。

それでもゴッドは怯まず。後ろ脚に噛みつく、そして叩かれる。

……

ゴッドと熊の戦いが続き、ゴッドはあちこちから血を流している。

熊は一見すると無傷に見える。

お父さんが枝を数本まとめて火をつけて熊に向かう。

今度は熊が後ずさりした。ゴッドが背後から熊の背中を飛び越えて鼻先に噛みついた。

ガァァッ!大きく吠えてゴッドを叩き落したが、鼻からダラダラと血が滴る。

熊は鼻先を擦るようにしてから後ろを向いて頭を振りながら逃げ出した。

叩き落されたゴッドは地面に倒れたまま起き上がれないでいる。

綾乃は走りよって「ゴッド、ゴッド大丈夫?」抱きしめた。

ゴッドが鼻を鳴らし顔を上げて綾乃を見た。

綾乃は頭を撫で「ありがとう、ゴッド助かったわ」一層力を込めて抱きしめた。

お母さんがジャンパーを脱いでゴッドをくるんでくれた。

ゴッドは傷口をペロペロと舐めだした。

「お父さんは?」お母さんが言うので目をやると、熊と戦った場所にへたり込んで放心状態のようだ。

「お父さん!」綾乃は大きな声で呼ぶ。

「お父さん、確りしてっ!」お母さんも叫んだ。

それでも身動きしないお父さんを心配してお母さんが駆け寄り、頬をペタペタ叩くと、

「あぁお前たちは無事か?」第一声はまた綾乃たちを気遣う言葉だ。

お母さんに腕を引っ張られて立ち上がった。

「ゴッドはどうした? やられてないか?」

「えぇ結構な傷出来ちゃったけど大丈夫。町へ行ったらお医者さんに薬塗ってもらいましょう」

「そうか、良かった、良かった、良かった、……」

お父さんの声がだんだん小さくなっていった。

立ち上がって傍に来たお父さんの頬には幾筋もの涙の痕がついていた。

「怖かったなぁ……」お父さんは興奮冷めやらぬ様子で言った。

「ほんと、ゴッドがいなかったらと思うと恐ろしい。今頃どうなっていたか考えたくもないわ」

お母さんが身体を振るわせて言った。

「私逃げ出すとこだった」綾乃は自分の弱さを恥じた。

――背を向けて走っちゃいけないって分かってたはずなのに、パニックになっちゃったなぁ。……

「ゴッドさまさまね」綾乃はそう言って何回もゴッドの頭を撫でた。

「そうだ、俺ちょっと興奮して寝れないから、お前たち先に寝てくれ。あとで母さん起すから見張り代わってな」

「あっ私も見張りやります」

綾乃は言ったがふたりとも頭を振って、「あんたは誘拐されてるんだから寝てなさい」二人そろって言って、二人そろって笑う。

――まぁ良いか、適当に起きたら代わってあげよう。それまで寝てよう。……

ゴッドを挟んで綾乃とお母さんは寝ることになった。

 

 

 斜面で犬に追われ逃げた男は車に戻った。

女は戻ってこないが、そのまま車を走らせる訳にも行かず待っていた。

ややあって車に戻ってきた女は「あんた何さっ! 自分の彼女が襲われてるって言うのに逃げるのか! 意気地なし! 死ねっ!」今にも掴みかかってきそうな顔をして言う。

「うっせー、熊じゃねぇから良かったじゃん」

「見てよこれ」

女が尻を浮かせてパンツを引っ張っぱると大きく穴が空いて下着が見えている。

「ははは、良かったな、肉噛まれなくて」

「冗談じゃないわよ。噛まれたし、これ幾らすると思ってんの、あんたに買ってもらうからね!」眉間に皺を寄せて言う。

「何でよ、あの犬に買ってもらえや」

「で、どうすんのよ。殺らないと金貰えないんでしょう?」

「うっせー、今電話してみる」

そう言って男はスマホを取り出した。

「……いやー途中で犬出てきてさぁ」男が言う。失敗したことは言いずらいが言わないわけにも行かないから腹を括っていた。

「なんだ犬って?」と相手の男。

「知らんが、殺る積りで迫ったら噛みついてきてよ。それで逃げられたのよ」

「情けねぇな、たかが犬くらいでビビってんじゃねぇぞ」

男は、事情も知らないくせに偉そうに言いやがって、そう思うと腹が立つ。

「で、どうすんだ。まだ、追うのか?」男は半分はやけで言った。

「当たり前だべや、殺るまで追え! どいつもこいつも役に立たねぇ奴ばっかりだ」男がまた偉そうに言いやがってと思ってると通話を切られた。

「くっそー勝手に切りやがった」

「何だって?」女が訊いた。

「追えってよ」男は不貞腐れて言った。

「私嫌よ、山ん中なんて……熊だってこの辺にはいるんでしょ? 冗談じゃない。追うなら私は帰る」

「じゃ、降りて歩いて帰れや」

「何言ってんの、熊いるって言ってんじゃん。送ってよ」

「そんな暇ねぇ、奴らの先回りしてとっ捕まえる」

男は女を無視して車を走らせた。

「今度会ったら絶対ぶっ殺してやる」そう呟きながら……。

 

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