第四章

1 圭祐

 これで何枚目になるだろう。

 圭祐は仰向けに倒れた元妊婦に向かって、フラッシュを焚く。そのたびに恐怖で歪んだ顔が薄闇に浮かび上がった。

 被写体はスカジャンを着た、あの暴走族の恋人の女だった。

 この女は夜中に一人になることが中々なく、タイミングが難しかった。が、一人になってしまえば襲うのはむしろ簡単だった。足を引っかけて転ばせれば、後はいつも通りだ。珠希が膨腹にバットを振り下ろし、圭祐はそれをただ見ているだけ。終わってみると、空腹に耐えていた見張りの時間が一番大変だったように思えた。

「いろんなアングルから撮っておいてね」

 少し離れたところで、バットに寄りかかるようにしていた珠希が言った。薄暗がりで表情は見えなかったが、想像はついた。いつものことだ。

 上気した頬に、ゆるんだ口許。

 そして、ときどきゾッとするほど静謐な表情で、祈るように、ある人の名前を口にする。珠希の方がよほど宗教的だ。

 さらに数回フラッシュを焚いたところで珠希が近づいてきた。既に気を失っている女の腹に足を乗せ、

「あんたみたい親がいるから、不幸な人間が増えるんだよ」

 嘲笑交じりの声だった。その頬はやはり赤くなっていた。

「せいぜい反省して、これから先、弁えて生きることだね」

 珠希は女の腹に足を乗せたまま、圭祐からカメラをひったくった。小さな画面に目を落として確認を終えると、

「よく撮れてるね。現像もよろしく」

 圭祐は元妊婦の全身が映るように、もう一度シャッターを切った。

 珠希はそれを見ながら、興奮した様子で笑っていた。


「このカメラで、その人のこと撮っておいて」

 二週間前のことだ。一人目を襲った直後、珠希から安物のフィルムカメラを渡された。足下に転がっているのは、深夜にヒステリックに騒いでいたあの女だった。

「なんで僕がそんなこと。何のために必要なんだよ」

 圭祐は顔を顰めたが、珠希は、

「言うとおりにして」

 と語気を強めるだけだった。

「理由なんて知らなくていいから。私のことをずっと見てるって約束だよね」

 どれだけ反論しても、珠希は全く取り合わなかった。「写真を撮って」の一点張りで、圭祐はしぶしぶカメラを受け取った。

「ほら、撮って」

 言われるままシャッターを押す。苦悶に歪んだ表情が浮かび上がる。

 女の股から液体が漏れ出していた。

 それを目にした瞬間、突き上げるような吐き気に襲われた。叫び声を理性で押さえ込み、喉元の胃液を飲み下した。大袈裟なくらい手が震えた。

「そんなに緊張しなくてもいいのに」

 珠希はせせら笑った。

「死にそうな顔してるよ。大丈夫?」

「お前には、罪悪感とかないのかよ」

 胃酸で焼けた喉から絞り出すように、

「こんなことして……なんで、笑ってられるんだよ」

 珠希は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、またにんまりと笑って、

「善行だからだよ。何度も言ってるじゃん。私がやるのは間引き。不幸が減るんだから、善いことでしょ? 逆に、圭祐はどうしてそんな怯えてるの? 死体を見たわけでもないのに。それに圭祐だって、羽崎さんに堕ろさせようとしてたじゃん。それと同じことが起きてるだけだよ」

 珠希は責めるような目をしたが、その口許の緩みは隠し切れていなかった。

「怯える必要なんてないよ。まして罪悪感なんて、もっと要らない。そんなものあったら、初めからこんなことしていない」

 バットをその場に落とし女の腹に足を乗せた。

「悪いのはこいつらだよ。自分の価値を見誤って、子どもなんて産もうとするからこうなるんだ。少し考えれば分かるはずなのに。周りに流されて、思考を放棄して、漫然と子どもを産もうとするからこうなる。自業自得だよ」

 足下に目を落とし、

「ねえ。聞こえてるかな。反省してよ。あなたがやろうとしたのは、この世でもっとも下劣なことなんだよ。自分の幸せの糧に子どもを消費しようとした。不幸を量産しようとした。この痛みは罰だと思って? これから先は弁えて生きようね」

 足下の女は何かを呻き、虚ろな瞳から涙をこぼした。珠希はケラケラ笑うと、もう一度女の腹を蹴飛ばした。鈍い音はここまで届いた。女は気を失った。

 顎で指示をされ、圭祐はまた何回かシャッターを切った。

 そうしているうち、感覚が麻痺したのか、いつの間にか震えは止まっていた。

「今日はもう帰ろうか」

 撮影が終わると、珠希はバットを拾って近づいてきた。赤らんだ頬には仄かに汗が浮いていた。玉の汗が光っている。ふっと香水が圭祐をくすぐった。

 視線に気がついた珠希は流し目になった。

「見惚れちゃった?」

「馬鹿言えよ」

 圭祐は心中で沸き起こった熱が治まるまでカメラの小さな画面を見つめていた。


「今日でとりあえず、〝適性〟を見た人は全員終わったかな」

 現場から少し離れた公園に移動してきたところで珠希が言った。

「二週間で三人なら上々だ。あの宗教の女だけはやれてないけど、まあ今回は圭祐に免じてやめてあげよう」

「それはどうも」

 わざとらしく頭を下げた。

「で、なんで僕にこんな写真を撮らせたんだよ」

 まだ現像はしていないが、手元に残るのは管理に困る。昔も似たような事件があったらしく、「妊婦を襲う怪人が出没する」と都市伝説化されているのだ。

「こんなもの、何に使う気だよ。誰かに配りでもするのか?」

 捨て鉢に言うと、珠希は薄笑いを浮かべた。

「ありかもね。スナッフフィルムっていうんだっけ。高く売れそう」

 圭祐は大きく溜め息をついた。

「……渡してもいいけど、僕の名前は絶対に出すなよ」

「冗談だって。誰にも渡さないよ。誰にも」

 嘘か本当か、圭祐には判別がつかなかった。珠希が自分以外とも共謀している可能性は充分あると踏んでいた。

「――そういえば、なんで珠希は妊婦だけ襲うんだよ」

 ずっと気になっていたことだ。子どもを産ませないというのなら、男を襲うという手もあるはずだ。むしろ、そちらの方が効率的だ。

「それだったら圭祐が真っ先に襲われてるね」

 珠希は小馬鹿にするように笑った。

「襲いやすいからだよ。逃げるのも遅いし、制圧しやすいでしょ。簡単で安全。わたしは効率より安全をとるよ」

 こんな事件を起こさないのがいちばんの安全だが、言わなかった。通り魔事件の被害者も、力の弱い、小柄な女子ばかりだったことを思い出していた。

 そのとき、公園の入り口に二つの明かりが見えた。懐中電灯だ。圭祐と珠希は慌てて立ち上がったが遅かった。

「君たち、そこで止まりなさい」

 強い光を向けられる。警官がふたり、こちらまで近づいてくると、ようやく懐中電灯を切った。

「君たち高校生だよね。こんな時間に何やってるの」

 二人のうち、若い方が聞いてきた。精悍な顔つきで、正義感が全身からにじみ出ていた。珠希の嫌いそうなタイプだ、と圭祐は勝手な想像をする。

「君たち、学校名と名前は?」

 珠希は頬を強張らせていた。

「すみません。私たちの家、色々厳しくて。よくこうして秘密のデートをしてるんです」

 腕を絡ませてきた。心臓の鼓動を感じる。どちらのものか、分からなかった。圭祐も調子を合わせて、泣く寸前のような声をつくった。

「そうなんですよ。学校でも、付き合ってるのは秘密にしてて……誰かにバレたらまずいんです」

「ごめんなさい。今後こんなことはしませんから、今回だけ見逃してくれませんか。親にバレたら、別れさせられちゃうんです」

 頭を下げた珠希が、わざとらしく鼻をすすった。圭祐は笑いを噛み殺しながら、珠希に倣った。そのとき、ベンチの下に、とっさに隠したらしいバットが見えた。

 若い警官は呆れたように息を吐くと、後ろに控えていたもう一人を振り返り、どうします、と問いかけた。

「まあ、真面目そうな二人だし。今回はいいんじゃないか」

 中年の警官が穏やかに笑った。

「それでも心配なら、名前と住所くらいは控えさせてもらえばいいさ」

「それもそうですね」

 と向き直り学生証の提示を求めてきた。圭祐が取り出そうとした瞬間、珠希は、

「すみません。今は持ってないです」

 と真顔で答えた。

「口頭でもいいですか」

「ああ、まあいいよ」

 中年の警官は苦笑していた。

「佐藤珠希です。住所は……」

 珠希が答えていると、ガザッとノイズが聞こえた。無線の音だ。若い警官は二言三言やりとりをすると顔色を変えて、中年の警官に耳打ちした。二人はこちらへ向き直ると、

「最近は物騒だから、気をつけて帰りなさい。彼氏君も、ちゃんと家まで送ってあげるんだぞ」

 慌ただしく公園から出て行った。二人の背中はすぐに見えなくなる。

 珠希は突然噴き出した。圭祐もつられて笑った。

「あー、緊張した。もう圭祐、なに学生証出そうとしてるの。焦ったよ」

「突然のことだったから、つい。珠希のあれは嘘?」

「当たり前じゃん。全部デタラメ。圭祐はあのまま聞かれてたら、全部答えてたかもね。『円木圭祐、十七歳です。さっきまで妊婦をぶちのめしていた恋人の近くにいて、あまつさえ販売用の写真を撮っていました』ってさ」

 ふたりの笑い声がこだまする。

 珠希の頬には朱が差していて、うっすら汗ばんでいた。珠希の昂ぶりが手に取るように分かった。

 そして、自分の昂ぶりも。

 発散させなくてはいけない、よく回る舌を、宵闇にひかる目を、その先にあるものを、屈服させ、蹂躙しなくては。

「圭祐……?」

 甘えた声が聞こえる。股間が熱くなっている。珠希にゆったりと近づき、抱きすくめた。

「なにをしたいの?」

 誘うような声を合図に、珠希にくちびるを寄せる。わずかに位置がズレて吐息がもれだした。絡んで、融けて、今度はぴったりと重なる。

 珠希の手が後頭部に回ってくる。口内でうごめく舌が、混ざり合っていく。

 唇を離すと、珠希はぺろりとくちびるを舐めた。

「やっぱり、見惚れちゃったんでしょ」

「……そうかもな」

 圭祐は自分の舌に残る感触を忘れられず、素直に頷いた。珠希は満足そうに笑ってまた唇を合わせてきた。

 愛情表現と呼ぶには粗雑な時間に陶然としながら、圭祐は、近いうちに彼女と体を重ねることになるだろうとぼんやり考えていた。


 二人が見逃した宗教の親子が殺されたのは、この日の深夜のことだった。

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