第二章

1 圭祐

 学校を出る頃には、日が傾き始めていた。いつの間にか、セミの声もスズムシの声へと変わっており、トンボの行き交う姿が目についた。粘つくような残暑と、そこら中で沸き立つ蚊柱だけが夏の名残を感じさせた。


 圭祐は一旦自宅の前を通り過ぎ、堤防まで足を運んだ。河川沿いの砂利道には小さく屈んだ後ろ姿が見えた。いつものように、後輩の宮下直人が、そこにいた。


 宮下の隣に座る。宮下は圭祐に気がつくと一度手を止めたが、またすぐに手元で行っている作業に戻った。


「また、派手にやったな」

 今日は猫だった。猫の死体が解体され、肉塊に変わっている。宮下は少しだけ申し訳なさそうな顔をしたが、ただそれだけだった。手が止められることはなく、圭祐もそれを咎めることはなかった。


「昨日、羽崎が襲われた」

 足下の血飛沫がついた石を弄りながらそう切り出した。

「今は市立病院に入院してる。見舞いには誰でもいけるみたいだ」

「そうですか」

「ああ。あと数日は入院することになると思う。……今なら羽崎を好きにできるぞ」

 宮下は手を止めた。

「もういいですよ。今更仕返しなんてしても、虚しいだけじゃないですか。誰かが俺の代わりにあいつを襲ってくれたなら、それでいいんです」

 恨みの籠もった瞳は、宮下の持つ、猫を解体するための、血に濡れたナイフよりも鋭利だった。

 嘘をついていることは分かったが、圭祐はそれ以上何も言わなかった。


 宮下は羽崎からいじめを受けていた。


 二人はただのクラスメイトだったが、圭祐と羽崎が付き合うようになってから、圭祐に気に入られている宮下を、羽崎が気に入らなくなったのだ。羽崎の嫉妬心に性差はなく、独占欲には果てがなかった。宮下は男の割に体が小さく、されるがままだったそうだ。羽崎とその友人からされた仕打ちは実に屈辱的なものだったと聞いた。


 そうして宮下は夏休み前から学校に来なくなり、代わりに堤防で時間と小動物を潰していることが増えた。圭祐は変わってしまった後輩が、それでも大事だったし、罪悪感も、少なからず背負っていた。


「羽崎を襲ったのって誰なんですかね?」

 猫の死体を川に流した宮下がこちらを向いた。

「先輩は知ってますか?」

「さあな。知らない」

 圭祐は流れていく死骸を見つめた。たゆたいながら下流へ向かっていく。

「今流行りの通り魔の仕業じゃないか」

「そうですかね。通り魔と羽崎を襲ったのは別人なんじゃないですか?」

 宮下は思案顔で言った。宮下は案外鋭い。

「なんでそう思ったんだ?」

「ただの勘ですよ」

「そうか」

 後輩の勘に負けるとは、ずいぶんと自分は焦っていたらしい。


     ○


 珠希とは、協力するか否かの押し問答があった。だが、それはすぐ決着がついた。弱みを握られたからだ。


 一通りの問答を終えると、珠希はボイスレコーダーを掲げた。

「ごめんね。ここまでの会話、全部録音してあるんだ」

 体中の血が凍る。圭祐は自分の発言、一言一句を思い返していた。恋人を襲った犯人に感謝した。恋人を襲った犯人のこれからやることを聞いた。それを止めようとはしなかった。


 そして――その音声が録られている。使いようによっては圭祐を社会的に殺せる武器だ。ナイフよりも怖い。

「別に脅そうってわけじゃないんだけど」

 珠希はボイスレコーダーを後ろ手に隠した。

「私は圭祐に自白しちゃったし、対等な立場でいたいなって思って」

「対等って……どう考えても僕が不利だろ」

「そんなことないよ。圭祐がここでのこと、黙っていてくれるなら誰かに言うことはない。圭祐は、もし私がこれを誰かに流したら、私の犯行を喋ったらいい。対等でしょ? その上でお願いしてるんだ――」

 また手が差し出される。


「私と一緒に不幸の芽を摘もう」


 圭祐はその手を見つめたまま考えていた。もう、協力しないという手はないのではないか。ここでこの手を振り払ったら、確実に自分の汚名が流される。しかしこの一線を超えたら、いよいよ後戻りできなくなってしまう。

「それは迷ってるの? それとも無言の肯定?」

 黙っている圭祐に痺れを切らしたのか、珠希は不満げな顔になった。

「はっきりしてよ。大丈夫。私たちがやるのはただの善行だよ。子どもを救済するんだから。不幸な子どもを少しでも減らすんだ。世間的に見れば暴力だけど、きっと世界が変わる」

 恍惚とした表情を浮かべた。

「私たちが世界を変えるんだよ」


 圭祐は溜め息をついた。

「世界がどうとか、不幸の芽とかの話は一旦置いておいて、人殺しなんて間違ってる」

「圭祐もそういうこと言うタイプの人間なんだ。恋人を孕ませて、流産を願うような人間だから、協力してもらえると思ったんだけどな」

「それとこれとは話が違う。普通、人殺しは止めるだろ」

「同じだよ。それとも堕胎も殺人だって言うの? それだったら羽崎さんを襲うように頼んだ圭祐も同罪だよね。今更だから協力してよ」

「羽崎のことに関して言ってるわけじゃない。何度も言うが、それについては感謝はしてる。でも、前の三件は違うだろ。中高生を殺すなんて……そんなことには協力できない」

 珠希は目をしばたたいた。

「なんの話?」

 訝しげな表情で首を傾げ、圭祐の顔を探るように見つめた。

「私が中高生を殺す? なんの話か分からないんだけど……」


 そこでようやく認識のズレに気がついた。

「もしかして、通り魔事件って、お前の仕業じゃないのか?」

「どおりで。話が噛み合わないと思ったよ。私が襲ったのは羽崎さんが初めてだ。通り魔なんて……そんなことしてない」

 圭祐は安堵の息を吐いた。

「なんだ、僕はてっきり……」

「私は人を殺したりしないよ。何度も言ってるじゃん。私は不幸の芽を摘みたいだけなんだって」

 微笑む珠希にぞっとした。

「そのせいで、不幸になる人間がいるとしてもか?」

「もちろん。子どもを産むっていう行為は長期的に見れば不幸を量産する行為でしかない。身勝手な人間が自慰的に子どもを産んで、いずれはその子どもも同じ事をする……。こんな、延々と不幸のバトンリレーを繰り返すなんて馬鹿みたいじゃん。これ以上、不幸を増やす必要なんてない。だから摘むんだよ。そうしていつか、不幸のない世界を作る。それが私の願いで、行動原理だ」

「そんなこと、現実的じゃない。出来るわけが……」

 珠希は圭祐の言葉を遮った。

「私の行為は、長期的な目で見れば幸せのための一歩だ。不幸を絶えさせるんだからね。圭祐はやってくれる? やってくれない?」


 差し出される手を見詰める。迷ったふりをして見せる。でも、腹の中では既に答えは決まっていた。自衛のためなら、きっとこれが正しい選択だ。


 そうして圭祐は差し出された手を取った。珠希はにっこりと笑った。

「よろしくね、圭祐。二人で世界を変えよう」


     ○


「先輩は確か弟でしたよね」

 その言葉で我に返った。

 サバイバルナイフを洗い終えた宮下がこちらを向いていた。まだナイフに血は残っていたが、宮下は気にすることなく革のケースにしまった。

「ああ、兄貴がいる。それがどうした?」

「いや、実は、その……最近、弟が出来きて。夏休み前に生まれました」

「そうか。お前が兄貴にな」


 珠希と会話をした後だったからか、素直に祝福出来なかった。宮下は眉をハの字にして、

「先輩は実の兄貴が引きこもりってどう思います?」

 と聞いてきた。

「不登校で、いじめられてて、普段引きこもってるくせに、命を奪ってる、そんな人間だって知ったら、弟としてどう思います?」


 圭祐は宮下のあまりの真剣さに気圧されつつ、少しだけ考えてから、

「僕の兄貴も引きこもりなんだ」

 と打ち明けた。

「嘘。そんなわざわざ話を合わせなくても良いですよ」 

「本当だって。昔、ちょっと色々あってな。以来ずっと部屋に引きこもってる」

「初耳です」

「黙ってたからな。でも僕は別に兄貴を疎んじゃいない。むしろ被害者だと思ってるし、同情だってしてるよ」


 宮下は力の抜けた顔で笑った。

「同情って……あんまり印象は良くないですよね」

「嫌われて疎まれるよりはマシだろ。そもそもずっと部屋に籠もってるんだから嫌いようもない」

「それは確かにそうですね」

 カラカラと笑いそれから思い出したように表情を曇らせると、

「でも、母親はそうもいかないですよね。不登校になってから、俺のこと、邪魔者扱いしてきて」

「ああ。それはうちも似たようなもんだよ。兄貴が引きこもり始めた最初の頃は、部屋の前でよく怒鳴ってた」


 最近ではそんなこともなくなり、母は兄を完全に見限ったようだが。


「うちの母親なんて、前に泣きながら『産んでしまってごめんなさい』って謝ってきましたよ。さすがに傷つきましたね」

 宮下は声を上げて自嘲気味に笑い飛ばした。

「だから俺もそのときばかりは、『生まれてきてごめんなさい』って返してやりましたよ。そしたら母親、もっと泣き出しちゃって」

 瞳が潤んで見えた。圭祐は黙って耳を傾けた。

「でも最近はそういうことも減ってきて、俺、多分いらないって判断されたんですよ。で、その代わりに啓太を……弟を作ったんじゃないですか」


 兄の代わりになる弟。そういうことがあり得るのは圭祐自身、実感としてよく分かっていた。僕も同じだよ。そう言いかけて、珠希のことを思い出し、言葉を換えた。

「宮下。お前、生きてて良かったって思うか?」

 一瞬だけ面食らい、またへらりと笑った。

「そんなわけないじゃないですか。いつだってもう死にたいって思ってますよ」


    ○


 母はまだ帰っていなかった。二階に上がり、兄、尚人の部屋の扉をノックして「ただいま」と声をかける。返事はなかった。いつものことだ。気にせず、扉を背にして座り込んだ。

「なあ、兄貴は生きててよかったって思ったことある?」

 これにも返答はなかった。

「今日変わった知り合いができたんだ。で、そいつが『少しでも不幸になる可能性のある子どもは産まない方が良い』って言うやつでさ。極端だろ?」

 わざと笑い声を上げた。

「でもその話を聞いたときに、なんとなく兄貴のことを思い出してさ……」

 尚人が自室に引きこもるようになってから、もう三年が経っている。依然母は自分の非を認めず尚人を蔑ろにし、尚人も一度も部屋から出てこない。


「なあ、兄貴」


 立ち上がり、少しだけ声を張る。

「兄貴は今、生きてて幸せ?」

 待っても返答はなかった。

「おやすみ。兄貴」

 そう言い残し尚人の部屋を離れた。


     ○

 

 尚人が引きこもり始めたのは、圭祐が中学二年生のときだった。その頃の尚人は役所で働いており、休日には圭祐を車に乗せて色々なところに連れて行ってくれた。弟想いで尊敬する兄だった。


 ある日、圭祐が家に帰ると、母と兄、そして見知らぬ女性がリビングのテーブルを囲んでいた。

 まず母が圭祐の帰宅に気がつき、高い声を上げた。

「あら、けいちゃんお帰り。今日は早かったのね」

「テスト期間だから」


 圭祐の視線は兄の隣に座る女性に釘付けになっていた。視線に気がついたのか、女性は引き込まれそうなほど深い色をした柔い瞳を圭祐に向けた。

「尚人君の弟さん? 似てるね。いつもお兄ちゃんにはお世話になってます」


 長い横髪を耳に掛けながら会釈してくる。おっとりとした目鼻立ちが柔らかい印象だった。空色のワンピースは目に鮮やかで、思わず見とれた。圭祐はしどろもどろになりながら名乗った。


 女性はその様子に微笑んだ。

「澄香です。お兄ちゃんとは一年くらい前から交際させてもらってて……」


 素直に驚いた。こんな美人が兄が付き合っているだなんて信じられなかった。兄は騙されているのではないかとすら思った。


「私も本当に最近知ったのよ。一週間くらい前かしら」

 母の言葉には棘があった。

「もう婚約までしてるんですって。早いわよねえ。最近の子は何でも自分で決めてしまうものなのね。私の頃だったら考えられないわ。まず親に挨拶に来るのが常識ってものでしょう?」

「ご挨拶には伺いたかったんですけど、お母様はきっと聞く耳を持ってくれないだろうって、尚人君が言っていて」

「あら、なお君が悪いの?」

「いえ。そうは言ってないですよ」


 澄香は見た目よりも気の強い性格らしかった。尚人は二人を諫めるように一瞥してから圭祐を見た。

 

 固い笑顔で言う。

「悪いけど少しの間だけ自分の部屋にいてくれるか?」

 圭祐は頷き、リビングを出て二階に上がった。部屋に荷物を置き、すぐに忍び足で階段を下りた。好奇心には勝てず扉越しにリビングの様子を窺った。


 母と澄香は変わらず笑顔のままだったが、尚人の顔は明らかに不機嫌なものに変わっていた。母が何か言うたびに、尚人は苛立った様子で反論している。母に対する文句か、あるいは澄香を庇うような言葉だったかもしれない。


 しばらく話し合いは平行していた。圭祐も次第に飽きてきて、部屋に戻ろうと踵を返しかけた。


 しかしそのとき、

「どうして分からないのよッ!」

 母が突然金切り声を上げた。圭祐は慌ててリビングに目を戻した。母は顔を赤くし、尚人は愕然とした表情をして、澄香は笑顔を強張らせていた。母の声は一向に止まらない。テーブルの上に何かがばら撒かれるのを見た。

 母の金切り声はほとんど聞き取れなかったが、唯一澄香のことを「あばずれ」と罵っているのだけは聞き取れた。


 やがて母の声が収まると、そこからは早かった。澄香は何度も頭を下げながら家を出て行き、尚人はその場にへたり込むと、体中の苦しみを吐き出すように呻きながら、激しく物に当たった。母はそれを止めようとして、兄に殴られた。


「あんたが俺の幸せを壊したんだ!」


 兄の怒鳴り声がはっきり聞こえる。リビングから出てきたところと鉢合わせた圭祐も「どけよ」突き飛ばされ、背中を強かに打ち付けた。兄はバツの悪そうな顔で階段を上っていくと自室の扉を大きな音で閉め切った。

「母さん、何があったの?」

 呆然自失としていた母は、弾かれたように顔を上げると、泣きながら縋るように抱きついてきた。

「けいちゃんだけは私の味方でいてね。お兄ちゃんみたいにならないで」

 圭祐は取り乱す母になすがままにされながら、テーブルの上に目を遣った。写真がばらまかれている。目を疑った。


 写っていたのは、酔っ払いであろう男達に囲まれ、愉しげに笑っている澄香だった。体の際どい部分を触らせているもの、路上でキスをしているもの、極めつけは腕を組んだ男とホテル街へ足を向けているものまであった。


 今日見た格好とは違う派手な装いと化粧を身に纏い、蠱惑的な流し目で男にしな垂れかかっている。母の発した「あばずれ」という言葉は間違っていなかったのだ。

「これ、母さんが撮ったの?」

 それまで泣いているだけだった母は思い出したように狼狽えだし、「心配だったから」「なお君のためを思って」と言い訳がましく口にした。


 そりゃあ兄さんも怒るよな、と圭祐は同情した。信じていた婚約者に裏切られ、それを暴いたのが過干渉な母親だと知ったら取り乱したくもなる。たとえそのおかげで、「あばずれ」との婚約を免れられたとしても。

「こういうことはしたらダメだよ。兄さんはもう大人なんだからさ」

 圭祐は子どもに言い聞かせるような口調で言った。

「前から思ってたけど、母さんは過干渉なんだよ。もういい加減、息子離れしなよ」

 しかし母はまるで反省した様子もなく、

「でも、結果的になお君は助かったでしょ」

 と言いのけた。

 圭祐は閉口した。母に対する不信感を抱いたのも思えばそれが最初だった。


 こうして兄が引きこもるようになり、三年が経った。その間、一度だけ澄香が訪ねてきたこともあったが、今はどうしているのか知らない

 知りたくもなかった。


     ○

 

 部屋に入ってすぐ、違和感に気がついた。シーツや枕の位置が微妙にずれているのだ。加えて、棚に収まっている本の順番も違っている。何より目についたのは、勉強机だ。今朝は何も置いていなかったはずの勉強机に物が散乱している。


 机上には、大学のパンフレットや入試の参考書が所狭しと積まれていた。どこも兄が卒業した大学よりもいくつかランクの高い。母の仕業に違いなかった。


 母はあの日以来、圭祐への期待を過剰に大きくした。尚人の代わりを――いや、それ以上を望んだ。今通っている高校も、尚人の通っていた高校よりランクが高い。本当は兄と同じ高校に進学したかったが、母はそれを渋った。


 ――お願いだからけいちゃんはお兄ちゃんみたいにはならないで


 三年間、呪いのように繰り返されてきた。尚人と同じ学校に通わせることで圭祐も同じ路を辿るのではないかと、母は本気で心配しているのだ。馬鹿馬鹿しい。圭祐は机に載っていたパンフレットや参考書を手で払った。

 と、下からくしゃくしゃに丸められた紙が出てきた。広げてみると、羽崎と撮ったプリクラだった。圭祐は思わず噴き出した。母は三年前から何も学べていない。過干渉がどのような結果をもたらすのか、それを理解できていないのだ。


 こういったことは初めてではなかった。尚人が引きこもりになる前から幾度となく繰り返されてきたことだ。小学生の頃は部屋に隠していたゲームを没収された。中学生の頃は友人から借りていたグラビア雑誌を勝手に棄てられた。そして今は元恋人を否定されている。大学に進学したら次は何を否定されるのだろう。大人になったら?


 階下から玄関ドアを開ける音が聞こえた。母が帰ってきたのだ。圭祐はプリクラを全てゴミ箱に入れ、床に落ちた参考書を踏んで部屋を出た。

「あら、けいちゃん。帰ってたの。おかえり」

 母は圭祐の顔を見ると、必要以上に施された化粧を崩して笑った。

「ちょっと仕事が長引いちゃってね。すぐご飯にするわ」

 圭祐は、短く言葉を返し、自室に戻った。母が自分の部屋を物色したことを、ことさら責める気もなかった。強く反発すればするほど、言い訳が長くなり疑いも深くなる。どうせ部屋に疚しい物はないのだ、気が済むまで漁らせれば良い。


 昔はそれでも反発していたが、その度に母は、過剰に健全さアピールした子育て本を持ってきては、「子どもの非行の芽にいち早く気づくことが大切」だとか「子どもの変化を見逃すと非行に繋がる」だとかそういった理屈を並べ立てた。

「けいちゃんが心配なのよ。本には子どもが隠し事をしているのは非行のサインだとも載ってたし。まさか、けいちゃんがそんな子じゃないとは思ってるけど、ねえ。心配なの。分かってよ、これが親心なのよ」


 母は本に書いてあることは全て正しく、書いていないことは間違っていると思い込んでいる節があった。どうやらその子育て本には、「子どもへの過干渉は子どもを潰す」とは書いてなかったらしい。


 いつしか圭祐は反発をやめて、母に期待することもなくなった。


    ○


 夕食後、風呂に入ってから自室に戻ると、机の上で携帯が震えていた。発信者の名前を見て、圭祐は深い溜め息をつく。一度コール音が切れるまで待ってみたが、また改めて掛かってきたので、諦めて電話に出た。

『ああ、圭祐。もしかして、もう寝るところだった?』

 珠希の声が聞こえる。

『それだったら悪いんだけど、今すぐ出てきて。会おうよ』

 時計を見るともう日付が変わろうとしていた。

「こんな時間からどこに行くんだよ」

『こんな時間だからこそだよ。協力してくれるんでしょ?』

 安請け合いしたことを少しだけ後悔した。ボイスレコーダーがある以上は、珠希の言うことを聞くしかない。

 今は、まだ。


『いい夜だよ。まさしく、犯罪にはうってつけの夜だ』

「どこに行けば良いんだよ」

 珠希はある建物の名前を口に出した。そこは圭祐たちの通う高校から少し東へ行ったところにある廃ビルだった。危ないから近づかないようにと、散々学校でも注意されていた。

『早く来てね。終わっちゃうから』

 珠希は一方的に電話を切った。


 母は明日も仕事だといっていたから、もう既に寝ているだろう。圭祐は私服に着替えると忍び足で一階に下り、裏口の鍵を開けて家を出た。


   ○


「やっときた。待ちくたびれたよ」

 圭祐が廃ビルに着くと、すぐ正面の駐車場に珠希が立っていた。

「これでも急いできたんだよ。それで、なんでこんなところに――」

 廃ビルは五、六階ほどの高さで、壁に付いたしみのせいか、おどろおどろしい雰囲気が漂っていた。

「すぐに分かるよ」

 珠希は素っ気なく言って錆び付いた外階段に足を掛けた。ギシリと軋む音が響いた。


「ここはさ、あんまり良くない噂が多いんだ」

 ゆっくりと階段を上っていく珠希は、前を向いたまま呟く。

「子どもの霊が出るとか、不良の溜まり場になってるとか、怪しげな新興宗教のミサの場になってるとか」

 それは圭祐も聞いたことがあった。でも――

「それ、与太話だろ。子どもを寄せ付けないための」

 珠希はくつくつと笑った。

「確かにね。あの噂はほとんどがデマだよ。今時の不良はこんなところじゃなくて、コンビニに溜まるし、子どもの霊もいない。ここで死んだ子どもなんていないんだから」

 なぜか、断定的な言い方だった。珠希が振り向く。

「でも、新興宗教のミサの場になってるっていうのだけは、実は本当なんだよ。今日ここに呼んだのは、それを見せたかったからなんだ」

「なんでそんなの……珠希のやりたいことと関係あるのかよ」

「ミサの中に妊婦がいるんだ。その妊婦を襲いたいんだよ」

「そんな……」

 今すぐにでも逃げ出したかった。しかし珠希はそれを見透かすように、圭祐の手首を捉まえた。

「まだ襲わないよ。まずは妊婦の適性を見るんだ」

「適性?」

「本当にその人が子どもを産んでいい人間か、ダメな人間か、それをちゃんと見極めるんだ」


 いつの間にか目的の階までたどり着いていたらしい。珠希が非常口の扉をひらく。金属の低い唸り声が鳴る。

「そんなの、珠希が決めることじゃないだろ。そんな権利、お前には――いや、誰にもない」

 珠希は含み笑いをした。

「権利じゃない。これは宿命だよ。私にだけ課された宿命だ。誰からも共感を得られなくても、やらなくちゃいけない」

「……人を襲うのは犯罪だ」

「そうだね。だから皆はやらないんだ。どんな人間が子どもを産もうとしても、それを咎めることもない。それが常識になってるからね。それを反対する、私のような人間がむしろ異常なんだよ」

 珠希は静かに話しながら廊下を進んでいく。

「ねえ。でも、どっちが異常なんだろうね。私みたいに無私の精神で不幸を減らそうとする人間と、常識に流されて不幸を量産する人間。どっちが異常で、どっちが悪なんだろうね」


 ピアノの伴奏が聞こえた。どんどんその音は大きくなっていく。薄暗い廊下に弱々しい光を洩らす部屋がある。恐らくそこから聞こえているのだろう。

「私が出産に反対なのは、苦しみを生み出す行為だからだよ」


 珠希は更に声を潜めた。

「人生には苦痛が伴うんだ。それなのに、憚ることなく子どもを産んで、産まれさせられた子どもの気持ちは度外視している。だから、私本当は、どんな人間も子どもを産むべきじゃないと思ってる。でも、私に全ての人間から生殖能力を奪うことはできないし、そんな力もないから、手の届く範囲の、こいつは子どもを産むべきじゃないなって感じた人間の出産くらいは止めたいんだ」


 そこで歩みを止め、その場にしゃがみ込んだ。ピアノの音に交じって、ソプラノボイスの歌が聞こえた。


「でも、いつかは全ての人間から出産という行為を取り上げたいな。そうしたらきっと、世界はよくなる」


 声を潜めた珠希に、明かりの灯った部屋を見るよう、指示される。圭祐はひっそりと中を覗き見た。


 部屋の中央には蝋燭の火がたてられ、白いローブを被った数人が、それを囲んで歌っている。そのうちの一人の腹は妙に膨らんでいた。妊婦だ。その隣には子どももいる。子どもは眠そうな顔で首をカクカクと揺らし、それでもなんとか耐えているようだった。


「どう? こんな夜更けに子どもを連れて、こんな廃ビルで宗教活動をやってるんだ。あの家に産まれる子どもは哀れじゃない? きっとあのお腹の子も、産まれたら同じことをやらされるんだよ。親の価値観に縛られて生きることになるんだ」


 珠希はヒソヒソと圭祐に耳打ちした。


「私はああいう人間が子どもを産むのに反対なんだよ。あれが私の摘みたい不幸の芽だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る