2 わたし

 翌日、学校に行ってみると、校門の前に人だかりができていた。大きなカメラが何台もあって、それに囲まれるように校長先生が立っている。普段は朝礼台の上でハキハキと喋っている校長先生が、今は額に汗を浮かべながら言葉を詰まらせている。その脇に控えた警官はマイクを持った人波が何か質問しながら近づくたび、両手を広げて押し返していた。

 異常事態があったのだ。わたしはそう察して、すぐに昨日の千摘さんの言葉を思い出した。心臓があばら骨を激しく叩いている。まさか、本当に……

 その場から動けずにいると、マイクを持った一人の女性がこちらに近づいてきた。それに連れられて、大きなカメラと別のレポーターも近づいてくる。わたしはあっという間に取り囲まれ、何本ものマイクを銃口のように向けられた。

「あなたはここの生徒かな? 神林さんはどんな子だった?」

「神林さんと仲は良かったの?」

「神林さんが亡くなっているのを聞いてどんな気持ちだった?」

「悲しかった? それとも、友達じゃなかったのかな?」

 四方八方から威圧的な笑顔と質問が容赦なく襲いかかってきた。何も答えられずいると校長先生は苦い顔でこちらに近づいてきた。

「困りますよ。子ども相手にそんなこと。精神的なショックも大きいでしょうし、そっとしてあげて下さい」

 わたしはその言葉ですぐに解放された。校長先生はわたしに目線を合わせて、なぜここにいるのか、と訊ねてきた。

「今日は学校を休みにしたんだけどな。知らなかったのかい」

「なんで、ですか」

 答えは分かっているのに、そう訊ねずにはいられなかった。校長先生は一瞬口ごもって、でも教えてくれた。

「神林咲(さ)妃(き)さんが殺されていたんだよ」

「そう、だったんですか。知りませんでした」

「君は、神林さんと仲が良かったのかな?」

 言葉に詰まった。昨日足蹴にされた腹の痛みを思い出した。

「いえ、神林さんとは同じクラスでしたけど……特に、仲が良かったわけでは……」

 そこで校長先生はわたしの姿を見ると眉を寄せた。まだ残暑が厳しいというのに、長袖であることが不審だったのだろう。それから何かピンとくるものがあったのかもしれない。校長先生は近くに立っていた警官に耳打ちしてから、

「少しの間、学校の中にいなさい。中は冷房も効いてて涼しいから」

 制服の警察官がわたしの手を取った。わたしは促されるまま校門をくぐった。


 校長先生がわたしを校内に入れてくれたのは、決して優しさではなかったのだと気づいたのは、警察官に手を引かれ職員室に連れて来られてからだった。

 職員室の一角をパーティションで区切っただけの応接室に通され、黒い革張りのソファーに座らされた。警察官が職員室を出て行くのと同時に、目の前のテーブルに麦茶の入ったグラスが置かれる。お茶を出してくれた先生は物言いたげな目でわたしを見つめたが、言葉にすることなく席に戻っていた。

 わたしはパーティションから身を乗り出して室内を見渡した。若い先生から年寄りの先生まで、男の先生も女の先生も、みんな受話器を耳に当てていた。電話が終わったかと思えばまた電話が鳴って、どの先生もずっと頭を下げている。まるでそう決められたように同じ動きを繰り返していた。

 しばらく待っていると携帯電話を耳に当てた担任――木村正義先生がわたしの前にどっかりと腰掛けた。太い眉を下げた愛想笑いを浮かべて、いつもより半音高い声でなにかについて謝っている。

 わたしは先生の電話が終わるのを待ちながら、グラスを空にした。ようやく電話が終わると正義先生は深い溜め息をついた。

「なあ、佐藤。そんなに、俺が嫌いか」

 わたしは首を傾げた。

 好きか嫌いかと聞かれれば、間違いなく嫌いだ。大嫌いだ。でも質問があまりにも突飛で理解できなかった。正義先生は苛立たしげな舌打ちをすると低い声で話し始めた。

「今朝、トイレで神林の死体が見つかったのは知ってるよな。で、そのトイレっていうのが昨日神林達がいたトイレなんだ。俺が神林に戸締まりを頼んでいたところだ。分かるな。お前も知ってるだろ」

 わたしは頷く。

「あのあと、俺は神林達に会ったんだ。そうしたら戸締まりはお前に任せたといっていた。でも、今朝学校に来てみれば、戸締まりがされてなかったというんだ。これはどういう意味なんだろうな」

 正義先生が身を乗り出した。責めるような視線がわたしに向けられる。

「なあ、俺がいじめを見過ごしてたのがそんなに許せなかったか? だからわざと戸締まりをしなかったんだろ。今は通り魔事件もあるもんな。いじめてくる神林が殺されたらラッキーだと思ってたんだろ」

 わたしは耳を疑った。あの悪鬼のような神林を殺すだって? とんでもない。追い詰められたネズミはネコを噛みはするが、殺したりはしない。そしてわたしは、噛むことすらできなかった臆病者だ。

 わたしは動揺しながら、誤解であることを伝えた。窓はただ閉め忘れただけだったし、神林が死ぬなんて思ってもみなかった。通り魔事件だって知りもしない。

 しかし先生は納得いかない表情で、わたしを詰り続けた。

「被害者がお前だけで、学校内で済ませられる問題なら良かったんだ。それなのに、殺人事件なんて……。俺の経歴に傷がついたらどうしてくれるんだ」

 周りの目を気にしているのだろう。決して声を荒らげることなく淡々と言った。わたしはなぜ責められているのか理由も分からず、ただ謝るしかなかった。すべて先生の被害妄想だけど、そんなことをいっても通用しないだろう。平謝りに平謝りを続けた結果、ようやくわたしは解放された。

「お前が俺のクラスにいなければ良かったんだ。本当に邪魔なやつだな」

 わたしを職員室から追い出しながら、正義先生はぼそりと言った。

「『佐藤汚い、清めの塩』だっけ? 本当にお前にお似合いだよ」

 ピシャリと高い音で職員室のドアが閉じられた。その音に押されるように校舎を出た。途中、廊下で校長先生とすれ違ったが目を合わせてすらもらえなかった。

 校門の前からはカメラもレポーターも一人もいなくなっていた。わたしは肩を落とす。もしいたらすべて告発してやれたのに。

『神林咲妃はいじめっ子で、木村正義先生はいじめを見て見ぬ振りした最低な人間です。本当の被害者は殺された神林でも、責任を追及される先生でもなく、このわたしです!』

 マイクを持ってそう叫ぶ自分の姿を想像すると少しだけ笑えた。


    *


 昨日の廃ビルにまた足を運んだ。屋上に行けばまた千摘さんに会えるのではないかと、短絡的に思った。あの人が本当に神林を殺したのか問い詰めたかった。

 だが、いくら待っても現れなかった。昨日と同じようにフェンスによじ登っても、「生まれてこなければよかった」と呟いてみても、背中に声がかかることはない。わたしは諦めて廃ビルを出た。強い西日に目が眩んだ。千摘さんは、本当にわたしが作り出した幻想なのかもしれない。

 帰路を辿っていると後ろから声をかけられた。一瞬だけ期待したがすぐ肩を落とした。わたしの姉だった。姉はあの廃ビルの近くに立てられた高校に通っている。

「こんなところで何してるの?」

 一つに結わえた黒髪を揺らして近づいてきた。薄く施された化粧が外灯を受けて光って見えた。

「ここ学区外でしょ? それに今日は休みじゃないの。事件、あったんでしょ」

 矢継ぎ早に質問してくる姉の背後には学ランを着た男子が立っていた。彼氏だろうか。

「妹さん? かわいいね」

 視線に気づいた学ランが言った。

「名前はなんていうの?」

 わたしは何も答えなかった。学ランは嫌な顔をすることもなく、左右対称の笑みを浮かべたまま、

「人見知りなのかな。ごめんね。突然話しかけられたら驚くよね」

 と朗らかだった。無駄に愛想の良い態度は不信だった。姉はわたしに呆れた顔を見せ、学ランには笑顔を見せた。

「ごめん、ここまででいいや」

「分かった。じゃあ、気をつけて」

 学ランはわたしにも手を振って、来た道を引き返していった。後ろ姿が完全に見えなくなってから、

「少しは愛想よくしなよ」

 と姉が言った。わたしは唇を突き出して無言で頷く。わたしの気持ちが分かってたまるかと思った。

「ほら、帰るよ」

 姉は溜め息交じりにわたしの手を取った。爪は磨かれ、微かに香水の香りがした。

「さっきの人、彼氏?」

 その質問には答えず、

「最近は物騒なんだから気をつけなよ」

 と大人びた声で言った。

「お姉ちゃんは、通り魔事件のこと知ってる?」

 正義先生に言われたことが気になって聞いてみた。

「今朝、小学校で亡くなっていた子も同じ犯人にやられたんじゃないの。その子を入れたら四人だっけ、被害者。先生も色々大変だろうね。見回りとかも増えるだろうし」

 四人。昨日、正義先生が持っていた書類を思い出す。きっと見回りに力を入れていたのだろう。もしかしたら千摘さんはもっと前から人を殺していたのかもしれないと思っておののいた。

「その被害者の子、知ってるの?」

 黙り込んだわたしに心配そうな目を向け、聞いてきた。

「……神林っていう子」

「友達?」

 わたしは首を振った。

「そっか」

 それで会話は終わり、もうどちらも口を開かなかった。繋がれたてのひらが妙に温かく感じられた。


 家に帰って待っていたのは、温かいご飯でも、暖かい空間でもなく、母からの冷たい折檻だった。母は鬼の形相でわたしの胸ぐらを掴むと、外に放り出した。初めはわけが分からず混乱したが、母がヒステリックに喚いている言葉を頭の中でつなぎ合わせて、化粧品がなくなったと怒っているらしいと理解した。高い香水だったようだ。母はわたしに平手打ちしながら、顔を真っ赤にしていた。本当に鬼のようだ。知らない、と言ってみても、ごめんなさい、と謝ってみてもダメだった。

 ふと、姉がこちらを窺っているのに気がついた。玄関のライトに照らされて、姉の顔が光っている。そういうことか、と一人で納得する。なんということはない。化粧品を盗ったのが姉だったというだけだ。さっき香水を嗅いだばかりだ。母それに気がつかず、殴りやすい私を選んだ。もはや笑い話だった。

 しばらくすると、疲れたのか、母はよろよろと家に戻っていた。わたしは痛むところを気に掛けながら体を起こした。

「ひどいね。大丈夫だった?」

 姉が言いながら近づいてくる。わざわざ責める気も起きなかった。いつの間に拭ったのか、その体からはもう香水の匂いはしなかった。昔から器用な人間だった。何をどうすれば自分に有利に働くのか理解していて、そのために他者を踏み台にすることすら躊躇わなかった。実の妹相手でも。実際、それで母からの虐待を免れているのだから、姉の振る舞いは正しいのだろう。わたしが弱くて間違っているのだ。

 わたしはじんじん痛む頬を押さえながら、差し伸ばされた姉の手を無視して家に入った。

 リビングには冷え切ったご飯が用意されていた。母はうろうろと歩き回りながら身支度を整えている。派手なドレスを着込み、長い爪をうっとうしそうにしながらぞっとするほど赤い口紅をひいている。別に用意してくれなくてもいいのに、と思う。そんな母親みたいなことしてくれなくてもいいのに。

「おかあさん、ありがと」

 姉が媚びるような声で言う。母は無反応だったが、きっとこういうところで好感度に差が出るのだろうと思った。母は大抵、わたしにばかり厳しい。

「仕事、がんばってね」

 食べながら姉が言った。わたしはなにも言わず席に着いた。

 母はいまキャバクラで働いているらしい。男の人と話しながらお酒を飲む店なのは知っている。でも、こんな人が男の人にモテるのだろうか、といつも思う。男の人とお喋りしながらお酒を飲む母をまるで想像できなかった。

「何見てんだよ」

 わたしの視線に気がついた母が声を尖らせた。

「なんだよ、その目は」

「……何でもない」

 気に食わなかったのか、大きく舌打ちをして壁を殴った。

「あんたもあたしを見下してんだろ⁉」

 金切り声で叫びわたしの首に手を掛け、無理やり立ち上がらせた。

「どいつもこいつも、なんであたしばっかり悪者なのよ!」

 母の手に力が込もる。尖った爪が皮膚を破いた。平手打ちが飛んでくる。一瞬だけ宙に浮いて、叩きつけられた。肺が痛む。肋骨が軋んでいる。明日にはひどい痣になっているだろう。視界の端に映った姉は味噌汁を啜っていた。

 千摘さんならこの苦しみを取り去ってくれるだろうか。

 わたしは目を瞑ってただの幻想かもしれない救世主を思い浮かべた。スーツ姿の死神。母の皮を被った鬼。救いはまだない。

 世界はまだまだ、わたしに厳しい。

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