3 礼子

 礼子が帰路についたとき、午後八時を回っていた。職員らに残業するよう命じた手前、付き合わないわけにはいかなかった。本当は定時に上がれる仕事量だったのに、無能な部下は本当に煩わしい。そして、一恵のあの目つき。本当にいらだたしい。

「ただいま」

 返事はなかった。どうやら息子はまだ帰ってきていないらしい。最近、帰りが遅いのも礼子の悩みの種だった。息子は部活をやっていない。それなのに八時を過ぎても家にいないのは一体どういうことだろう。ふと、通り魔事件のことを思い出して慌てて首を振った。着替える前に、二階へあがる。上の息子の部屋を通り過ぎ、下の息子の部屋をノックする。

「けいちゃん? 入るわよ?」

 念のためそう声をかけて扉を開けた。部屋は整理整頓が行き届いていた。漫画が床に散らばっていることもなければ、教科書が放り出されている様子もない。昔から自分の部屋は自分で掃除するように言い続けたおかげだ。礼子は自身の教育の成果を見るような気持ちで部屋に踏み入った。

 まずベッドに近づき、シーツと枕カバーを剥がして、その裏や隙間を手でまさぐった。マットレスとフレームの間も覗き、何もないことを確認してから元に戻す。ベッドの下や、抽斗、机の下まで確認する。何も見つからない。

 礼子はふと本棚に目を遣った。几帳面な息子らしく、教科書が高さ順に並べられている。その中に、大学のパンフレットと参考書の背表紙が見えた。それは先週、礼子が部屋に置いておいたものだ。県内でもトップクラスの大学だが、聡い息子のことだ。意図を汲んでくれたのだろう。そして恐らくあの写真はもうここにはない。礼子はそう結論づけた。

 

 先週も、礼子は息子の部屋を物色していた。昔からの習慣だった。愛読している教育本に『子どもの変化を見逃すと非行に繋がる』という文言を見て以来、定期的におこなうようになった。初めは息子も嫌がっていたが、次第に礼子の方が部屋に入った証拠を隠すのが上手くなり、最近では気づかれてもいないようだった。

 小学生のころは隠していたゲーム機を見つけた。中学の頃はグラビア雑誌。そして先日、プリクラを見つけてしまった。几帳面な息子にそぐわず、シート状のまま抽斗に押し込まれていた。

 一緒に写っていたのは、派手な顔をした少女だった。カメラに向かってはっちゃけている姿は、お世辞にも利発そうには見えない。息子と手を繋いだり、ハグをしたり、キスをしたりする写真を見て、所在の知れない怒りを覚えた。

 あなたみたいな女にけいちゃんは釣り合わないのよ。もっと真面目で、お淑やかで、利口な子の方がいいに決まってる。きっとけいちゃんも、何か弱みでも握られて無理やり付き合わされているんだわ。そう自分に言い聞かせた。しかし息子の顔は見たこともないほど緩んでいて、幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 礼子は息子がどこか遠くに行ってしまうような焦りを覚え、何枚かを感情任せに丸めた。机の上に放り出し、自分の部屋から大学のパンフレットと参考書を持ってくると、紙くずと化したプリクラを押しつぶすようにして、机の上に載せた。聡い息子だ。何を伝えたいかは理解してくれるだろう。

 そして、今日。大学のパンフレットはきちんと棚にしまわれ、プリクラはなくなっている。物色したことをなにも言われなかったときから薄々感じていたが、確信した。息子は恋人と別れたのだ。やはり、無理して付き合っていたのだろう。

「やっぱりけいちゃんは自慢の息子だわ」

 礼子は誰に言うでもなく呟いた。そして、その息子が通り魔事件に関係しているなどと少しでも疑った自分を恥じた。最近帰りが遅いのは、期待に応えようと勉強しているからに違いない。

 部屋を出て、階段を下りる直前、激しい物音が聞こえた。礼子は緩んでいた頬を歪め、深い溜め息をついた。上の息子のいつもの癇癪だ。いつも通り無視して足早に一階へ下りた。自室に入って、ようやくスーツを脱ぐ。礼子は上の息子を息子として認めていなかった。いくつになっても子どもなままの、出来損ないの邪魔な子。それが上の子だ。

 やはり私はあの老母とは違う。出来損ないには見切りを付けて、できる子にだけ心血を注いでいるのだから。

 一恵の縮こまった背中を思い浮かべ、嘲笑をくれてやった。

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