第三章
1 圭祐
あれから圭祐は珠希に呼び出されては妊婦の〝適性〟を見ていた。
一回目は廃ビルに行ったすぐ次の日だった。深夜三時に呼び出され、圭祐は少しだけ渋ったが、結局は指示に従い、裏口を出た。指定された場所に行くと、珠希はあるサラリーマンを尾行すると言った。
「奥さんが身重なんだって。妊娠して半年くらいらしいよ」
「そんな情報どうやって手に入れてんだよ。どこの誰が妊娠しているかなんて、普通分からないだろ」
「私は優等生だからね」
珠希は冗談めかして言った。
「今は見回り強化ってことでPTAの人達が学校にいることも多いから、噂好きなおばさん達が教えてくれるんだよ。あの人達は本当に口さがないからね。わざわざ適性を見るのもそれが理由。所詮は又聞きだからさ、私自身がちゃんと確認して、襲いたいんだ」
「そんなの……」
「しっ、静かに」
圭祐の言葉をさえぎり、珠希は人差し指を立てた。
後方にスーツ姿のサラリーマンが見えた。疲れ切った様子で、体を引き摺るように歩いてくる。珠希はサラリーマンが通り過ぎるのを待ってから、その後ろを歩き始めた。圭祐も続く。
十分ほど歩くと、サラリーマンは一軒家の前で立ち止まった。溜息をついて玄関を開ける。扉から漏れる玄関灯に照らされたサラリーマンの疲れ切った顔はいっそう生気を失っていた。
そのまま扉が閉まる。
なにもないじゃないか。圭祐が珠希に一言言ってやろうと口をひらいたところで、耳を劈くような叫び声が聞こえた。またすぐに扉が開いて、さっきのサラリーマンがよたよたと出てくる。鬼のような形相をした女も出てきた。その腹は確かに膨らんでいた。
「なんでこんな遅くに帰ってくるのよ! 今日は早く帰ってくるって言ったじゃない! 私のことが心配じゃないの⁉」
女は深夜にも関わらず、そう叫び声を上げた。サラリーマンは言い返す気力もないといった風にその言葉を聞き流している。その態度が気に食わなかったのだろう、女はついに手を出し始めた。
「あんな風に真夜中、毎日のように喧嘩してるんだってさ」
珠希は呆れた声で言った。
「この近くに住んでるPTAの人は、あの声のせいで不眠になったらしいよ。注意しても被害者面するだけなんだって。『夫の帰りが遅いせいだ』って。はた迷惑な話だよね」
「だから、堕ろすのか?」
「当たり前じゃん。あんなヒステリックで暴力的な人、子どものこと当たり前に虐待しそうだし。そもそもあんな人に、ちゃんと子どもを育てられるの? 夫も多分子どもを助けられないんじゃないかな。気が弱そうで、何より仕事で帰りも遅い」
何を今さらという風に首を傾げて見せた。
「そんなの偏見だし決めつけだ」
圭祐はそう言って、妊娠しているときは精神が安定しない人もいることや、子どもを産めば変わるかもしれないことを語ってあの夫婦を擁護した。
相変わらず、なぜ自分は擁護しているのか分からなかった。
「なにそれ、笑えるね」
返ってきたのは小馬鹿にしたような鼻から抜ける笑い声だった。
「子どもを産めば変わるかもしれないとか可能性の話でしょ? 前も言ったじゃん。子どもは大人の成長の道具じゃない。そんな可能性に賭けて、産むべきじゃない」
「不幸になるのだって、可能性だ」
「なら、少しでも幸福になる可能性があるから産むの? リスクを考えずに、リターンばっかり見るの? じゃあ圭祐はあそこに産まれた子どもが不幸になったとき、責任を取れるのかな?」
「それは……」
「ほらね、無理でしょ。圭祐だけじゃない、誰も子どもの人生に責任を負えないんだ。もちろんあの夫婦も含めて。それなのに子どもはいきなり人生を押しつけられて、自己責任で生きさせられるんだよ。そんなのって理不尽じゃない? だから私がそれを阻止してあげるんだ。不幸の芽は摘まないとね」
遠くからサイレンの音が聞こえた。騒ぎに気づいた誰かが通報したのだろう。窓から夫婦の様子を窺っている家もあった。それでもなお、妊婦の暴力は止まらない。
「そろそろ帰ろうか。警察に見つかったら面倒だし」
珠希は来た道を引き返した。圭祐は珠希の言葉を反芻しながら夫婦を見た。夫はやはり何の抵抗もせず、暴力にじっと耐えている。妻は膨らんだ自身の腹を気にかけることもなく、そんな夫に暴力を振るい続けている。この二人の間に産まれた子どもがどうなるのかを想像する。
「何してるの。早く行くよ」
珠希に呼ばれるまで、その場を離れらなかった。
二回目は休日だった。日曜日の昼間、例のように電話で呼び出された。深夜でないだけマシだが、電話一本で呼び出されるのは釈然としなかった。自分を下僕と勘違いしているのではないか。
圭祐は待ち合わせの駅に着くなり問い質した。しかし珠希は小馬鹿にしたように笑うだけだった。
「下僕って……そんなこと思ってないよ。圭祐は私の共犯者でしょ。それ以上でも、以下でもない」
〝共犯者〟という言葉に怯んだ圭祐に切符を渡してきた。
「今日は隣の市まで行くんだ。黙ってついてきて」
そう言ってさっさと改札を通っていく。諦めて後に続いた。
移動中、珠希が一言も喋らなかったので圭祐も黙っていた。一〇分ほど電車に揺られ、更にそこからバスに乗り換え、二〇分ほどで市街地の外れにある集合団地前のバス停に到着した。道路を挟んで向こう側に同じ顔をした団地が何棟も並んでいる。外壁の元の色が白いせいか黒い染みは余計に目立った。縦横無尽に走る亀裂の一つ一つまで全ての棟で違いはないように見えた。
「今日見てもらうのは、『子どもを産む資格のない人間』じゃなくて『子どもを産む資格のない環境』だよ」
団地前の小さな公園の錆びたベンチに腰掛けた珠希が言った。
「環境?」
「そう。子どもを育てるに相応しくない環境、そしてそれを作り出す要因。それがあそこにあるんだよ」
珠希は団地を指さした。特定の一部屋を言っているのかもしれないし、団地全体を追っているのかもしれない。
「標的の妊婦の苗字を、仮に佐藤としようか」
自分の苗字と被ることに抵抗はないのだろうか、とどうでもいいことを考えて、日本で一番多い苗字だから妥当か、と思った。
「佐藤さんは決して裕福ではない。でも、それなりの生活を営めるお金はあった。具体的には小学生の子どもを二人と父親の四人家族が、家賃の安いボロ団地で、家計簿を睨みながらなんとかやりくりできる程度のお金」
露悪的な言い草にうんざりした。珠希は気にする様子もなく続ける。
「繰り返すけど、決して裕福ではないんだ。給食費が払えない月もあるそうだし、子ども達の服が替わっていないこともあるらしい。それが原因で一時期はいじめられていたとも聞いた。真偽は今から確かめるけど……」
「宗教と暴力の次は金かよ」
さえぎって、言う。
「佐藤さんがもう一人子どもを産んだら、金銭的な問題で育てられなくなるって言いたいんだろ? だから産むべきじゃないと」
「正解」
珠希はにんまり笑った。
「実際、お金は大事だよ。子どもを育てる上でお金は無視できない。お金を無視して子どもを産めばどうなるかなんて、少し考えれば分かることでしょ」
「それ、貧乏人は子どもを産むなって言ってるように聞こえるぞ」
珠希はいよいよ声を上げて笑った。
「正解。その通りだよ、圭祐。よく分かってるじゃん。貧乏人は子どもを産むべきではない。良い言葉だね」
「そんなの……差別じゃないか」
そのとき、二人の前を四人家族が通った。珠希に顔を向けると一度だけ頷いた。佐藤さん一家だ。確かに女性の腹は少しだけ膨らんでおり、妊婦のそれだと分かる。その後ろを、優しそうな風貌をした男性が、子ども二人と手を繋いで歩いていた。
確かに四人の着ている服は上等ではなく、子どもの靴に至っては、踵まで履きつぶされてボロボロだった。しかしそれでも、子ども達は幸せそうな顔をしていた。
珠希は四人が通り過ぎるを待ってから言った。
「……私が差別主義者でも何でもいいけどさ。私が言いたいのは、簡単だ。わざわざ自分の首を絞めるようなことはするなってことなんだよ。佐藤さんは今四人家族でなんとか生活ができてる程度のお金しかない。それなのにこれ以上負担を増やすなんて馬鹿げてるよ。確実に首が回らなくなる。引き返させるなら今しかないんだ。あの四人が幸せそうなのを見たでしょ? あれが不幸になるのを圭祐は見たいの?」
「誰にでも子どもを産む権利はあるだろ。金銭的苦労があるなら、社会の出番だ。貧困家庭が子どもを育てられるように、保険とか保障とか福祉とかがあるんだから」
珠希は首を振った。
「違うよ、圭祐。確かに貧困層が子どもを育てられるように福祉はある。そこは正しい。でも、前提が違うんだよ。ああいう制度は子どもを産んでから苦しくなった人が使うものであって、産んだら苦しくなるのが分かってるくせに産みたいだけの人間が使うものじゃない。子どもは金の掛かる趣向品なんだ。貧乏人が安易に欲しがるものじゃない。あまりにも図々しいよ。少しは慎みを覚えるべきだ」
圭祐はあまりの言い草に口を噤んだ。
「そもそも、自分が幸せになりたいがために子どもを産む人間が多すぎるんだよ。後先のことを考えれば産まない選択もできるはずなのに、目先の快楽に流されて、平気な顔で不幸を量産するんだ。これはもはや一種の集団ヒステリーだね。嘆かわしいよ」
「なら、具体的にどんな理由ならいいんだよ」
「ないよ」
珠希は笑顔で即答した。
「子どもを産んでいい理由なんて存在しない。前にも言ったじゃん。私は出産という行為そのものに反対なんだって。誰がとか、どんなとか、そうじゃない。人間は等しくみんな、子どもを産むべきじゃないんだ。それでもわざわざ〝適性〟を見てまで人を選んでるのは私が驕ってないからだ。慎み深いからだ。自分の力量は弁えてるし、どんなことでも段階は踏むべきでしょ」
勝ち誇ったような顔だった。
「まあ、だからといって手を抜くつもりはないけどね」
ベンチから立ち上がると、大きく伸びをした。
「『出生しないことは議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ』」
唐突な発言に、圭祐は眉を寄せた。
「なんだよ、それ」
「ある哲学者の言葉だよ。私の信条でもある」
珠希はなにがおかしいのか、また笑った。
「こうして議論してあげてる分、私の方がいくらか優しいよね」
その表情に無性に腹が立って、圭祐はちょうど停留所に入ってきたバスに乗り込んだ。珠希は非難の声を上げながら、すぐ後ろをついてきた。運転手はその様子を見て目尻を和らげた。恋人と勘違いしたのだろう。圭祐は辟易しながら椅子に座った。
「そういえば羽崎さん退院したらしいね」
バスを降りたところで珠希が言った。羽崎が退院したのは一昨日のことだ。耳が早い。
「命に別状もないそうで良かったよ。流石に人殺しはまずいからね。暴行罪じゃすまなくなる」
「暴行罪ならいいのかよ」
「甘んじて受け入れるよ」
妊婦を襲おうとしているのだ。それはそうだろう。
「圭祐はあんまり嬉しそうじゃないね。恋人でしょ?」
「元、恋人だよ」
「いつの間に別れたの? 振られた?」
「別にそういう話はしてないけど……一回しか見舞いに行ってないんだ。連絡も返してないし、普通察するだろ」
「ダメだなあ。女心がまるで分かってない」
「別に分からなくていいよ」
そんなもの、中学生の頃に理解を諦めた。
「でも、もし別れてるんだとしたら、これってデートになるのかな。一緒にバスに乗って、隣の市まで行って、お話だけして帰ってくるなんて、恋人みたいじゃない?」
圭祐は少し冷静さを欠いていた。
「お前が彼女なんて願い下げだ。お前と僕は共犯者なんだろ」
つい勢いでそこまで言って、しまったと思った。珠希はにやけ面で肩を組んできた。
「そうだよ。よく分かってるじゃん。私と圭祐は共犯者だ。これからもよろしくね」
三回目は夏休みが明けてからちょうど一週間が経過した日だった。この日の早朝に小学生の遺体が発見されたらしく、通り魔の被害者は四人目になった。とはいえ学校が早く切り上げられるわけでもなく通常通りに授業は進められた。宮下が不登校になってからサボっていた委員会にも顔を出し、学校を出る頃には日が落ちようとしていた。
同級生の女子と帰り道が一緒だったので途中まで送った。
「最近生理が来ないんだよね」
同級生――たしか彼女も佐藤といった――が信号待ちにそう呟いた。
「ねえ、円木は高校生が子どもを産むのってどう思う」
将来の夢を訪ねるような無関心さだった。圭祐は当たり障りない回答をした。珠希が聞いたら烈火のごとく怒り出すだろうなと思った。すぐに自分ももうそちら側に立っていることに気づいてゾッとした。
学ランのカラーが妙に詰まっている気がして、息が苦しかった。
「……まあ勘違いかもしれないし。あんまり悩んではいなけどね。そのうち彼と相談するよ」
佐藤は途中で見つけた妹の手を引いて帰って行った。
深夜になると、珠希から電話が掛かってきた。
『今日はコンビニまで来てよ。高校から一番近いところ』
すぐに電話は切られた。圭祐はいつも通り裏口から家を出た。
コンビニにつくと、待っていた珠希に連れられ、向かいのコインパーキングに入った。車の陰に隠れるよう言われる。
「もうすぐ標的があそこに来るよ。今回は多分、圭祐も私の意見に同意してくれるんじゃないかな」
五分ほど待っていると、エンジン音とクラクションが聞こえた。何台かのバイクが連なってコンビニの駐車場に入っていく。
圭祐が視線をやると、珠希は小さく頷いた。
「あれがそうだよ。ちなみに妊婦はあの女の人」
珠希の視線の先にはスカジャンを着た腹の膨らんだ女がいた。大柄で、一段派手なバイクに乗っていた男の隣に立っている。大音量で垂れ流された音楽に交じって、時折、気の狂ったような笑い声が聞こえた。いつの間にかコンビニの駐車場は彼らの溜まり場と化していた。
「あれで親になろうとしてるんだから、いっそ尊敬に値するよね」
彼らに憚る様子は一切なかった。酒を呷り、紫煙を吐きだし、バイクのエンジン音はけたたましい。
「あれの出産が許せない理由は分かるよね」
珠希は険しい顔でそちらを見たまま言う。ちょうど妊婦の女が酒に手を伸ばしているのが見えた。圭祐は軽い頭痛を覚えた。
「……迷惑行為を平気でやる人間に資格はないって言いたいんだろ。あと親になる自覚もまるでない」
「正解。よく分かってるじゃん」
珠希は嬉しそうだった。
「産まれる子どもは本当に可哀想だよね。きっと劣悪な環境のせいで、同じような道を辿ることになるんだよ。犯罪者の子どもはどうせ犯罪者だ。そしてその子どももまた不幸を産んで、負の連鎖を繰り返す。きっとあの人達もそうだったんだろうね。同情はするよ」
「……決めつけだろ」
今回に限っては、同意できる部分もあった。それでも偏見と憶測で物事を決める珠希の態度には反対だった。なにより自分の手が汚れるか否かにも関わってくるのだ。
「遺伝からは逃れられないんだよ」
珠希はいつになく落ち着いた声でそう言った。
「犯罪者の子は、どこまでいっても犯罪者だ」
その表情があまりにも達観していて圭祐は言葉を失った。
沈黙が流れる。
コンビニから怒声が聞こえる。店員と取っ組み合いの喧嘩をしているらしい。匿名で警察に通報してそのまま解散となった。
「もう明日、実行に移すから」
別れる直前、珠希は言った。
「いよいよだよ、圭祐。子どもを産む資格のない人間に引導を渡してやれるんだ」
そういった珠希は残酷で楽しげで、少しだけ悲しげに見えた。
*
翌日。珠希から連絡がきたのは、河川敷で宮下と会っているときだった。
『すぐ廃ビルまで来て』
それだけで電話は切られた。宮下は手元の小動物を解体しながら聞いてきた。
「先輩、もう帰ります?」
圭祐は頷いて、少し気になっていたことを聞いた。
「……うちの高校に佐藤って苗字、どれくらいいると思う?」
宮下は一瞬戸惑い、質問の意図を探るような目つきで答えた。
「日本で一番多い苗字ですから、それなりにいるんじゃないですか。それこそ学校で一番多い苗字でしょ」
「だよな。僕の思い過ごしなら別にいいんだけど、もしもってこともあるからな」
圭祐がブツブツ言うのに、宮下はますます訝しげな顔をした。
「そんなことを調べてどうするんですか。鬼ごっこでもします?」
その冗談は少しだけ笑えた。
「今の話は忘れてくれ。多分考えすぎだ」
「そうですか」
宮下はそれ以上聞いてくることはなかった。
「じゃあ僕はもう行くけど、通り魔事件もあるし、帰りは十分気をつけろよ」
「大丈夫ですよ。俺がもし死んだところで誰も困らないので」
返す言葉が見つからず、曖昧に笑った。
「先生の仕事が増えるだろ」
「確かにそれは可哀想ですね。クラス名簿から俺の名前を消すのも面倒でしょうし、個人情報の処分も手間ですもんね」
その言葉でふと思いつくことがあった。そうか、その手があったか。
「ありがとな、助かった」
圭祐は改めて別れを告げ、河川敷を後にした。
廃ビルの駐車場に珠希の姿はなかった。中にいるのかもしれない。圭祐は錆びた外階段を登り、一階から順にビル内を探した。
あのミサで使われた部屋に一枚の写真があった。圭祐はそれを回収して、さらに上を目指す。窓から夕日が射し込んでいる。ひびの入った窓が光を砕く。ふと宮下のナイフを思い出した。血まみれのナイフ。真っ赤な空。燃えるうろこ雲。それよりずっと高温で燃える宮下のナイフ。
夕陽が沈み始めたところで、ビル内を全て調べ終えた圭祐は屋上に上がった。珠希はフェンスの傍に立って、沈みゆく夕陽を眺めていた。
「待ちくたびれたよ」
珠希は背を向けたまま言った。真っ黒な服を着ていた。すぐ隣には、ところどころが凹んだ金属バット。闇討ちにはぴったりだ。あるいは、圭祐は喪服を想像した。
「ねえ圭祐。いよいよだよ。いよいよ私達の手で世界を変えられるんだ」
珠希はこちらを見なかった。だがその声は熱に浮かされたようで、それだけで表情を予想できた。
「ここには死んだ子どもなんていないって話、前にしたよね」
静かな声だった。珠希はフェンスを握っている。
「ここで昔、死のうとしたことがあるんだ。親から虐待を受けて、学校でもいじめられて、生まれてきたくなかったって何度も思ってた。……このフェンスに足をかけたんだ。小学生の頃だったから、もう七年前かな。でも死ねなかった」
ガシャンと錆びた鉄網が軋む。
「……ここはね、私のお気に入りの場所なの。だから、あんな人間に踏み荒らされるのは耐えられないんだ。あんな、自分の価値を見誤る人間なんかに……」
ようやくこちらを向いた。逆光で影が落ち表情は窺えなかった。でも、笑っているのだろうと思った。
「さあ、もう夜だね」
例の親子が来たのだろう。珠希は金属バットを肩に担いで、酷薄な微笑みを浮かべた。
「記念すべき一人目だ。さっそくやっちゃおうか」
「ちょっと待って」
外階段へ向かう珠希の腕を取った。非難の目が向けられる。
「なに。ここまで来て怖じ気づいたの? 冷めること言わないでよ。手を切ろうとか、考えないで」
「でも……やっぱりおかしいだろ」
圭祐はあの部屋で見つけた写真を取りだした。
「……なに、これ」
観察するようにそれを見て、珠希はますます不愉快そうに顔を歪める。
「もしかして、こんなものに圭祐は絆されたの? 信じられない」
写真には母親と子どもが写っていた。恐らくあの妊婦と子どもだろう。ひだまりで笑い合うふたりには幸せが凝縮されていた。
写真が突き返される。
「私は、圭祐のために手を汚したんだよ。なのに……こんな写真で心変わりしないで」
「そんなの珠希が勝手にやったことだろ。僕は知らない」
「じゃあ羽崎さんに産ませてあげれば良かったじゃん」
「それは……」
「羽崎さんも可哀想に。羽崎さん泣いてたよ。『子どもだけはやめて下さい。助けて下さい』って。まあ助けるわけないんだけどさ。でも彼女、心意気だけは立派な母親だったと思う」
何も言えなかった。珠希は諭すように言う。
「何度も言うけど、私たちがやることは善行なんだよ、圭祐。倫理的に間違っていようが、法に触れていようが、誰かを傷つけていようが、これは正義なんだ。私たちが救ってあげないと」
「でも、子どもに罪はないだろ」
「罪がないからこそだよ。罪がないからこそ、摘んであげなきゃ。こんな世界に産み堕とされて、人生を強いられる方がよっぽど罰だよ」
珠希の鋭い声に兄を思い出した。
「そんなに嫌ならさ、その妊婦を狙うのはやめてあげるよ。それから実行役も私だけでいい。汚いところは全部被るよ。圭祐は何もしなくていい。ただ近くで私の犯行を見ていて。共犯者として、近くにいてくれるだけでいいんだ。それだけなら簡単でしょ?」
どれだけ食い下がられても突き放すつもりだった。
でも、ボイスレコーダーや、喧嘩する夫婦や、踵の履きつぶされた靴や、けたたましいエンジン音や、絡まれていたコンビニ店員の顔を思い出し、それからいくつかの打算も加味して、結局圭祐は承諾した。
「分かった。見てるだけならやるよ」
「本当に? よかった、ありがとう!」
抱きつかんばかりの勢いだった。
「私が正しかったって、絶対に言わせてみせるから」
はしゃぐ珠希を見ながら、泥沼に足を踏み入れたことに気づく。きっとこの先は地獄に決まっている。
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