2 わたし

 翌日から学校は通常通りに始まった。休みたかったが、母は怒るだろう。これ以上痣を付けられるのは困る。わたしは賞味期限切れのパンを水道水で流し込んで、昨日と同じ長袖を着て家を出た。

 校門の前にまた何台もカメラが並んでいた。正義先生と警察官が立っている。カメラやマイクは一定の距離を保ってあたりをうろついていた。登校してきた子に近づいて、マイクを向けている。だが、その子達が何かを答える前に、正義先生が止めに入った。まるで能面のような顔をしていた。

 校内は思った以上に落ち着いていた。神林の死体があった一階のトイレは使えなかったが、その他はいつも通りだった。警察もいないし、取り乱している子もいない。でもわたしのクラスは妙に欠席者が多かった。あの日トイレにいた取り巻きは全員欠席だ。神林の席の白百合が首を折っている。

「皆も知ってると思うが、一昨日の夜、神林咲妃さんが亡くなった。神林は皆にとってもかけがえのない仲間だったと思う」

 朝のホームルーム。教室に入ってくるなり正義先生は言った。固い笑顔を浮かべていた。

「あの神林が亡くなってしまったなんて、先生は今でも信じられない。一昨日まではあんなに元気だったのに、一体なぜこんなことに……」

 先生は、神林のことをつらつらと褒め称え、時には涙すら滲ませて、あれこれと語った。十分くらいだったと思う。

「みんな、目を閉じてくれ」

 賞賛が出尽くしたのかそう言った。みんなが目を閉じたようだったので、わたしも同じようにした。

「先生も目を閉じれば、神林の笑顔が浮かんでくるようだよ。きっとみんなも同じ気持ちだと思う。辛くて悲しくて、泣きたい子もいると思う。でも、いつまでもクヨクヨしてたら神林も悲しむからな。今から一分だけ黙祷の時間を取る。それが終わったら、みんなはもう神林の話をしないこと。いいな」

 その言葉に一瞬教室がざわついたが、正義先生の、黙祷、という声ですぐ静まった。教室に流れる静寂に先生のわざとらしく鼻をすする音が響いた。

 私は薄目を開けた。みんな律儀に目を閉じている。中には唇を噛んでいる子もいた。わたしの隣の席の子だ。名前は確か井月といった。神林と同じくらい気の強い子で、仲が悪かったはずだが、わたしの思い違いだっただろうか。

 さらに後ろにも目を配る。神林から明らかに無視されていた子や、話したことすらなさそうな子、あまり目立たない男子までもが、眉間に皺を作って、きつく目を閉じていた。神林の死を悼む教室の中、わたしだけが取り残された気分だった。

 一分以上経って、ようやく目を開けるように言われた。

「はい。もうみんな悲しくないな。これからは、どれだけ辛くても神林の話はしないこと。いいな。それから神林の机も撤去するから、花瓶どかしておけよ」

 また教室がざわついた。先生は拒絶するように私たちに黒板を向いた。神林が死んだ日の見回り当番だったのだ。きっと周りからも色々言われているのだろう。

 授業が始まってすぐ手紙が回ってきた。井月からだ。目配せをすると、彼女はしきりに頷いた。わたしは慎重に手紙を開いた。

『正義先生って絶対改名した方がいいよね』

 手紙にはその一文と、正義先生の下手くそな似顔絵が描かれていた。

 少しだけ笑えた。

『わたしもそう思う』

 そう書いて手紙を返した。井月は裏になにか書き足してまた渡してきた。そこには神林の悪口と、わたしがいじめられていたことへの文句が書かれていた。やはり神林と仲が悪かったのだ。

『私たち、佐藤ちゃんのことはいじめたりしないから、安心してね』

 文末にそうあった。わたしは曖昧に笑って手紙を返した。口先だけで感謝を伝えると、井月ははにかんで笑った。


 神林が死んでから数日後。クラスのリーダーの座には井月が座り、神林の取り巻きは凄絶ないじめに遭っていた。すべて手紙を受け取った時点から予想できていた流れだった。

 井月は神林と違っていじめを一切隠さなかった。まだ先生が教室から出て行っていないにいじめが始まる。放課後になると、わたしはランドセルをひっつかんで席を立った。一刻も早くこの空間から出て行きたかった。

「佐藤ちゃん」

 扉に手をかけたのと同時に井月から声をかけられた。わたしはゆっくり振り返る。井月の背後で、神林の取り巻きが取り押さえられていた。

「なに?」

 井月はこちらに近寄ってくると、わたしの手を取って耳元に口を寄せた。

「その首の傷って、神林にやられたの?」

 咄嗟に首元を抑えると染みるような痛みがあった。先日の母の爪のせいだ。答えられずいると、井月はさらに声を潜めた。

「一回カウンセリングとか行ってみたら? 私のお母さんが働いてるとこ紹介してあげよっか。保護者がいなくても話くらいなら聞いてもらえると思うよ」

 名刺を渡される。そこには井月の母親の名前の他に、メンタルクリニックの名前と住所、電話番号が書かれていた。既視感があったが、それが何なのかは分からなかった。

「まだ長袖は暑いでしょ? 気が向いたら、電話だけでもしてみて」

「なんで、ここまでしてくれるの?」

 疑問が口を衝いて出た。井月は微笑んでいる。神林の取り巻きは花瓶の水を飲まされ泣き崩れている。

「佐藤ちゃんがいい子だからだよ」

 何の衒いもない言葉だった。

「神林にいじめられたのって真奈佳のこと助けたからでしょ?」

 返答を待っているようだったので、わたしは無言で頷いた。

「やっぱり」

 くしゃりと頬に皺を作った。

「そういう人、大好き。無私の精神っていうの? 身代わりになって誰かを助けるの、かっこいいじゃん。救世主って感じがする」

 救世主という響きに白々しさを感じた。わたしは本物の救世主の残酷さを知っている。わたしなんかには到底なれやしない。

 井月は熱を帯びた声で続けた。神の教えを説く教祖さながらだ。

「あの子は神林と仲が良かったから。知らないかもしれないけど、佐藤ちゃんの机に落書きしたのあの子だからね。制裁ってやつかな。もしくは天罰。あいつは悪魔の手先だよ。だから屈させるんだ。私は正しくないことは好きじゃない」

 そう言って唇を歪める井月こそ悪魔のようだったが、それを口にすることはなかった。何が正しくて何が間違っているのか、もうよく分からない。

 わたしはそそくさと教室を出た。早く千摘さんに会いたかった。


    *


「やあ、さっちゃん」

 廃ビルの屋上、千摘さんは煙草をふかしていた。毎朝母がつけて帰ってくるいやな臭いを思い出して、息を止めた。しかし、よくよく嗅いでみると、千摘さんからは甘い香りがした。

「バニラの香りだよ。今はこういうのもあるんだ」

 惜しげもなく、まだ長く残る煙草を消した。

「それよりどう? あれからもう生まれてこなければよかったって思ってない?」

 千摘さんの声は優しかった。この人が本当に神林を殺したとは、とても信じられなかった。――信じたくなかった。

 わたしが黙っていると、千摘さんが近づいてきた。甘い匂いが強くなる。香水の匂いだ。姉と同じ匂いがした。

「浮かない顔だね。まだ長袖着てるし、首のそれも大丈夫?」

 優しく首に触れられた。自分で触ったときは染みたのに、千摘さんの手はくすぐったいだけで、不思議と痛みを感じなかった。

「……もう、いじめられてはない?」

「わたしへのいじめはもう収まりました。千摘さんのおかげです。でも、今度はわたしの代わりに他の子が……」

 わたしは絞り出すように、井月がクラスを牛耳るようになったことや、神林と仲の良かった人間がいじめられるようになったことを話した。

 井月はわたしを気遣ってくれたが、わたしはあんなこと望んでいなかった。制裁とか天罰とか、そんなものではない。わたしが欲しいのは安寧だ。わたしが救世主になれないように、井月もまた救世主にはなれない。当然、死神にも。

「千摘さん。わたしは、どうすればいいですか……。誰かがいじめられるのを見るくらいなら、わたしが……わたしだけが、いじめられていれば良かった」

 胸の奥が苦しかった。

「……さっちゃんは、優しいね。誰かのために、自分から傷つきにいくなんて、そうそうできることじゃないよ」

 千摘さんはわたしの頭を撫でてくれた。けれどその笑顔の裏に強烈な悪意が潜んでいるようにも見えた。わたしはこの人の本性を知っている。救世主は残酷なのだ。

「でも、甘いよ」

 低い声だった。

「さっちゃんがいじめられなくなったんでしょ? それだったらこの話はそこでおしまい。その先はないよ。他の誰がいじめられていても、さっちゃんには関係ない」

「でも、わたしがいじめられていれば、その子は……」

「今いじめられてる子って、友達なの?」

 わたしは言葉に詰まった。

「やっぱり。ならさっちゃんが思い詰める必要はないよ。その子がどんないじめを受けていても、些末なことだ」

 にべもなく言って、

「そもそも誰かの苦しみを背負おうなんて傲慢だよ」

「でも千摘さんはわたしを救ってくれたじゃないですか。わたしの……救世主になってくれた」

「救世主? なにそれ」

 困惑した顔で首を傾げられ、急に恥ずかしくなった。

「……私がその救世主だったとして、さっちゃんもそうなりたいの? 誰かを助けるって、重たいことだよ。それはさっちゃんも分かってるでしょ?」

 諭すような口調だった。わたしは頷いた。

「だから、別に救世主になりたいわけじゃないんです。そもそも、なれないですし。でも、現状には耐えられなくて、それで……」

「そっか」

 千摘さんはわたしの涙を拭った。それから思案顔で顎に手を当てた。

 短い沈黙が流れる。

 やがて、千摘さんは納得するように何度か頷いて、

「その、いじめっ子の名前って分かる?」

「井月唯花、です」

「井月ちゃんね」

 繰り返してから、

「なんでいじめるような子になっちゃったんだろうね。教育の問題かな」

 独り言のように呟いた。

「もしかして、井月にも何かするんですか」

「どうかな。できるかどうかは、あの子次第だから」

「あの子?」

「ああ、いや。こっち話」

 千摘さんは手を振った。

「それより首のそれさ、お母さんにやられたんだよね」

「いや、これは……」

 わたしはとっさに首を隠した。

「誤魔化さなくていいよ。さっちゃんに責任はないんだから。お母さんがぜんぶ悪い。暴力を振るう母親なんて最低だよ」

 そこで言葉を切り、千摘さんは小さな溜め息をつくと、かたむく夕陽に目を向けた。

「……綺麗だよね」

 ぽつりと言った。

「ここからの景色好きなんだ」

 わたしも千摘さんと同じ方を見た。やはり街が燃えているように見える景色だ。

「近いうち、お母さんのこともなんとかしてあげるからね」

 何でもないことのように言った。

「それまで少しだけ待ってて」

「でも、そんなことしたら千摘さんが……」

 わたしは千摘さんを見た。彼女の目は夕陽ではなく、そのもっと先にある別のものを眺めているように見えた。それが一体何なのか、わたしには分からない。

「気にしなくていいよ。私が好きでやることだから。さっちゃんを助けるのは全部私のエゴだ。だからそんなに恐縮されると、ちょっと照れる」

 千摘さんは髪を撫でた。

「でも、そうだな。もしよかったら、少しだけ協力してほしい」

「協力、ですか?」

 少しだけ身構えた。千摘さんは声を上げて笑った。

「小学生に危ないこと頼んだりしないって。頼みたいのは、調査だよ」

「調査?」

「そう。これから妊婦を見かけたら、どんな背格好で、どの辺りに住んでるのか、教えて欲しいんだ。こういうのは、子どもの方が警戒されないからね」

「なんで、そんなこと知りたがるんですか」

 千摘さんはにやりと笑った。

「未来のため、かな」

「未来の……」

「そう。私はこの世界を変えたいんだよ。さっちゃんみたいな子を、これ以上増やしたくないんだ。そのためには情報がいる。協力してほしい」

 自分を鼓舞するように、力強い声だった。世界を変える。抽象的な言葉の意味は分からない。でもわたしはその申し出を断らなかった。

「ありがとう。本当に、助かるよ」

 わたしが頷くのを見て、千摘さんはおだやかに笑った。背後から差し込む夕陽が、まるで後光のように見えた。

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