3 礼子

 泣きじゃくる少女を前にして、もう一時間、これでようやく三人目だ。

 礼子はいい加減辟易していた。それは別に、少女達がずっと泣いてばかりで、まともな話をしないからではない。親の態度だった。

「具体的な状況を話してもらえないことには、正しく診察することはできない」

 何回説明しても、当の母親は取り乱すばかりだった。気を抜けばうっかり舌打ちでもして、罵声を浴びせてしまいそうだった。

 無駄、苦痛、それは礼子の嫌うものだった。

 少女の泣き声の合間を縫うように、礼子はまた笑顔を貼り付け、

「それじゃあ、もういちど話してもらえるかな」

 隣に座る母親は、子どもと礼子の顔をおろおろと見比べていた。

「ほら、もう一度先生に話して……!」

 こんなときでも我が子への示威を忘れない母親にこっそりと毒づく。役立たずめ。前の母親の時も同じ感想を抱いたし、末松のことは言うまでもない。

 ややあって、目に涙を浮かばせたままの少女が、またぽつりぽつりと話し始めた。

 要領を得ない話に、礼子はまた溜息を飲み込んだ。


「子どものカウンセリングをしてほしいんです」

 末松からそう頼まれたのは昨日のことだった。

 珍しく残業を手伝いに来た末松は、礼子を人気のない場所に呼び出し、そう言った。声には深刻さが滲んでいた。

「礼子さんにしか、頼めないんです」

 泣きそうな声で頭を下げてきた。頭を下げて物を乞われるというのは、存外気分が良い。口許がゆるみそうだった。頬に力を入れて、

「お子さんが、どうかされたんですか?」

「娘の通う小学校で、殺人事件が起きたんです」

「殺人事件、ですか」

 礼子は目を見張った。心臓が大きく脈打つように感じた。

「ええ。通り魔の仕業じゃないかって……知らないんですか」

 末松に不思議そうに見上げられた。

「え、ええ。あまり、ニュースを見ませんから」

 まさか意識的に遠ざけているとは言えなかった。息子が通り魔でないと結論づけてからも、礼子の中では常に言いようのない不安が蟠っていた。

「その殺人事件がどうかしたんですか?」

「被害者の子と娘が、仲良かったみたいで……以来、部屋に籠もりっぱなしなんです」

「友達を亡くしたら、落ち込むのが普通ではないでしょうか」

「それは、そうなんですが……」

 末松は苦い顔をした。

「どうにも普通じゃないんです。何かに怯えてるみたいで。泣きながら謝っているんです」

「謝っている?」

「なにに怯えているのか、どうして謝っているのか。聞いても答えてくれなくて……」

「殺人事件が起きたのはいつ頃なんですか?」

「昨日です。今朝早くに死体が見つかったみたいですよ。今日は休校みになったんですけど、それを知ってから娘の様子がおかしくなって……」

「なるほど……」

 神妙な顔で頷いたが、頭の中では恐慌が起こっていた。昨日の夜、息子が家にいたかどうか、礼子は覚えていなかった。

 昨日、息子は夕方に帰ってきた。夕飯は一緒に食べた。礼子は仕事があるので早めに私室に戻った。このときまで息子は家にいた。しかし、そのあとはどうだっただろう。朝まで一度も目を覚まさなかったから、息子が夜中に何をしていたのかは分からない。早く寝たのかもしれないし、夜更かしして勉強をしていたかもしれない。あるいは、家の外に出て小学生を――

 いや、息子に限ってそんなことはない。私の自慢の息子だ。疑うことすら馬鹿らしい。

 礼子は自分に言い聞かせるが、心の靄は晴れなかった。

 でも本当にそうだろうか。昨晩、確実に締めたはずの裏口の鍵が、今朝になると開いていた。あれは息子が夜中に家を抜け出したからではないのか。やはり息子が通り魔でないのか……

「今も娘は家にいますが、あんなに怯えているのは可哀想で可哀想で……」

 末松が窺うような目でこちらを見た。もしかしたら――。礼子は思うところがあり、カウンセリングを引き受けることに決めた。

「では明日にでも時間を取りましょう」

「本当ですか?」

 末松の顔が明るくなった。

「できれば、他にも数名、カウンセリングを受けたいって言ってる子がいて、そちらもお願いしたいんですけど、いいでしょうか」

 礼子はそれも了承した。

 ――もしかしたら末松の娘は、通り魔と面識があるのかもしれない。

「ありがとうございます。ありがとうございます!」

 末松がバタバタと頭を下げてくる。やはり気分がいい。礼子はふっと肩の力を抜いて、また頬に力を入れた。


「末松さん、どうぞ」

 声をかけると恐縮した様子で、末松母娘が入ってきた。これでようやく最後だ。

「その、今日は急なことなのにお時間を取っていただき……本当に、ありがとうございます」

 末松は座るなり頭を下げた。その顔には疲労がべったりと張り付いていた。

「構いませんよ。仕事仲間の頼みですし、お金にもなりますから」

 礼子は冗談めかして言ったが、末松はにこりともせず、隣に座る娘を気にしていた。

 末松の娘は、さっきまで泣いていたのか瞼を腫らしていた。

「こんにちは。お名前と、年齢を教えてもらえるかな」

 礼子は視線を合わせるようにして尋ねた。カルテで名前も年齢も知っていたが、確認のためだった。

 だが、少女は答えようとせず、俯いたままだった。

「こら、失礼でしょ。挨拶くらいしなさい」

 肩を小突かれた少女はしぶしぶといった様子で、「真奈佳です。小学五年生です」と答えた。誰かに聞かれるのを恐れるように、小さい声だった。

 礼子は笑顔を作って、真奈佳に自分と目を合わせるように言った。

「真奈佳ちゃんは普段、学校で何をしているのかな」

「勉強と、あと友達と遊んだり」

 瞳に変化はなかった。

「友達か。いいね。何人くらいいるのかな」

「四人とか、そのくらい」瞳に変化はない。

「全員女の子?」

「そりゃあ、もちろん」真奈佳は頷く。変化はない。

「その子達とはいつも何して遊んでるの?」

「普通に……縄跳びとか?」

 そこで、視線が不自然に動いた。礼子は続けた。

「亡くなった子は、どうかな。その子も縄跳びが好きだった?」

「好きでした」

 一瞬だけ目を逸らされる。礼子は頷いて、次の質問を口にした。

「真奈佳ちゃんは通り魔の顔を知ってるのかな。それはどんな顔?」

 ここが分水嶺だ。心臓がうるさい。自分の息子が通り魔でないことが、この少女の返答に懸かっている。

 しかし真奈佳は突然、口を閉ざしてしまった。

「知らないのかな」

 それにも返事はない。

「……では質問を変えますね。真奈佳ちゃんはずっと何かに怯えてる。それは何なんだろう。謝ってもいるらしいね。誰にかな」

 踏み込んだ質問に真奈佳は答えず、母親をチラチラと気にしていた。

「末松さん、少しの間だけ席を外してもらえますか?」

 気づいた礼子が言うと、末松は目をしばたたかせ、

「お母さんには言えないこと?」

 真奈佳は小さく頷いた。末松はぐっと喉を詰まらせ、よろよろと立ち上がった。扉が完全に閉じられてから、目を戻した。

「これなら答えてもらえるかな」

 真奈佳は小さく頷いた。

「じゃあまず、いつも真奈佳ちゃんが友達と何をしているか……」

「最初、いじめられていたのは私でした」

 堰を切ったようだった。礼子は好きなように話させることにした。

「嫌なことをたくさんされました。やめてって言ってもやめてもらえませんでした。でも、夏休みに入る前、クラスの子に助けられました」

 話す練習でもしていたのか、淀みなかった。

「その子に助けてもらってすぐ、夏休みに入りました。その子に感謝していました。でも私は弱くて……勇気もないから、いじめてくる子に、その子をいじめようって誘われて、そうしないと、自分がまたいじめられるから……」

 真奈佳の瞳に涙が浮かんだ。

「夏休み明けから、その子をいじめました。みんなで。最初は私も嫌だったけど、だんだん楽しくなっちゃって。それが怖くて、もうやめようって思ってたんです。いじめたり、そんなことはしないようにしようって」

 鼻をすすり、

「……でも、その前にさきちゃんは死んじゃいました。恨まれてるんです。ぜったい。私も、もう、さきちゃんみたいになるのかもしれない……。それが怖くて、だって、私は脅されてただけなのに。私だって……なのに、こんな……」

 ボロボロと涙がおちていく。真奈佳はついに叫び声を上げた。

「なんで⁉ 私は悪くないのに! さきちゃんを殺したのはあの子! いじめられてたから、殺したんだ! それで次は……いつか殺される。私だっていじめられてたのに、こわかっただけなのに。他の子を狙えばいいのに。ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 それからは焦点の合わない目で謝り続けるだけだった。騒ぎに気がついた末松が駆け込んできて、娘の頭を抱いた。

「すみません。今日は、もう……」

 末松は何度か頭を下げ、娘を連れて出て行った。

 礼子は椅子に座ったまま、堪えていた物を吐き出すように深く長い溜め息をついた。

 とんだ取り越し苦労だ。真奈佳は罪悪感に取り憑かれていただけだった。これでは息子が犯人でないと証明できない。鍵の開いた裏口に説明がつかない。

 礼子の中で、また不安は膨らんだ。


    *


「末松さん、どうでした」

 休憩室に行くと、職員に話しかけられた。雇っている臨床心理士の一人で、そこそこ仕事のできる女だった。

「真奈佳ちゃん、私の娘と同級生なんですよ。心配ですね」

 熱のない声だった。礼子は女の向かいに腰掛けた。

「……真奈佳ちゃん、通り魔の被害者は恨まれてたから殺されたって言ってましたが、そんなにひどかったんですか?」

「なにがです?」

「いじめのことですよ。真奈佳ちゃんも一緒になっていじめていたと聞いたんですけど、本当ですか?」

「らしいですね。娘から聞いたことがあります」

 何でもないふうに答えて、手元のコーヒーを啜った。妊婦の体には毒だと聞いたことがあるが、大して気にしていないらしい。

「……小学生が小学生を殺すなんてあり得るんでしょうか」

 礼子は自分のぶんのコーヒーを淹れながら聞いた。

「真奈佳ちゃんがそんなことを言っていたので……」

「ないでしょうね」

 きっぱりと言い切った。

「見つかった死体、トイレに頭から突っ込まれていたらしいですよ。小学生にはできないんじゃないですか。共犯がいれば別ですけど……」

「そんな情報どこで……」

「週刊誌ですよ」

 休憩室のラックを指さし、

「本当か嘘かは分かりませんけど、エンタメとしてみるぶんには面白いですよね」

 女は何冊かを持ってきて机に広げた。どれもここ最近のニュースを面白おかしく書き立てていた。

『初夏の凶行。登校途中の高校生を襲った悲劇~連続通り魔事件犯人の軌跡~』

『妊婦暴行事件の再来⁉ T市にて事件発生。被害者はグラビアアイドルのHさんか』

『小学生殺害事件。頭部はトイレに? 恐るべき犯人の考えとは』

 粗悪な文の羅列に耐えきれず礼子が顔を上げると、

「昔も似たような事件ありましたよね」

 女が聞いてきた。確か、榎下がそんなことを言っていた。

「その犯人がまたやってるんでしょうか」

「その犯人、確か死んでましたよ。けど、小学生はないですが、学生が犯人っていうのは意外とあり得るかもしれないですね」

 礼子は息を詰まらせた。あなたの息子が犯人だと言われている気がして、ぞっとした。言葉を返せずいるとノックの音が聞こえた。パートの志奥が入ってきた。

「なんでしょう。いま、休憩中なんですが……」

「分かっています。ただ一恵様がいらっしゃいましたので、それだけお伝えに来ました。休憩から上がったら、診察室一番へお願いします」

 志奥は休憩室を出て行った。

「もう行ってきます」

 礼子はコーヒーを一気に飲み干すと、一番へ向かった。

 診察室には一恵の隣に髪の長ったらしい男がいた。歳は見たところ、三十代半ばと言ったところか。伸ばしっぱなしの前髪の隙間からこちらを見る目尖っている。その目は礼子の中で、上の息子が自分を見る目と重なった。

「そちらは?」

「息子です。本人が来たいとと言ったので連れてきました」

 一恵はいつになく笑顔だった。同席を断ろうと思ったが、特に理由がないことに気がつき、そのままカウンセリングは始めた。上手くいけば一恵の来院を減らせるかもしれないという打算もあった。

 だがすぐに失敗だったと悟った。

 引きこもりの原因を訊ねると、一恵の息子は気味悪い笑みを浮かべた。

「あなたは、あなたの子どもが引きこもってる理由を知ってますか?」

 ぐっと喉に詰まった。怯まず、普段はどのようなことをしているか訊ねると、、

「あなたの子どもは何をしていると思います?」

 と。

 礼子はそれでも笑顔を崩すことはなかったが、一恵の方が先に折れた。「そんな子どもに育てた覚えはない!」と喚いて、カウンセリングは有耶無耶に終わった。

「本当に申し訳ありません。やっぱりまだ連れてくるのは早かったみたいです」

 帰る間際、一恵は恭しく頭を下げ、その後ろで息子は、「また来ます」と嫌らしい笑顔を浮かべた。

 礼子は二人が出て行くと、苛立ちに任せて机を蹴飛ばし、壁を殴った。先日からの厄日続きで精神的に参っていた。こうでもしないと、気が狂ってしまいそうだった。

 上がった息を整え、診察室の扉を開けた。部屋の前に人がいたことにまず驚き、診察室に盗聴を仕込んでいたと言われ、絶句した。

「今時はスマホで簡単に録音できるんですよ」

 女はそう言って再生して聞かせた。

「なんだか失望しちゃいました。礼子さんって、こんな人だったんですね……」

 冷や汗が背中を伝った。

「ああ、でも安心してください。これをどうこうするつもりはありません。ただ、対等な立場でお話ししたいだけなんです」

「……何が目的?」

 礼子は金銭の要求まで視野に入れていたが、彼女の要求は簡単なものだった。

「次のカウンセリング、息子さんの方は私に任せていただけませんか」

 その女――志奥はそう言って、控えめな笑顔を浮かべた。

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